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2016/10/02

非日本映画的な日本映画『シン・ゴジラ』

『シン・ゴジラ』は凄まじいスピードで私たちを非日常に連れ去る。
私たちは、劇中にいる人々が感じるであろう恐怖や諦念や絶望を共有しつつ、終局に安堵しつつ映画館を出る。




『シン・ゴジラ』は情緒的な場面と絶叫と泣き叫ぶ人と無駄なセリフや物語を停滞させてしまう愁嘆場がない。ヘタクソなタレントだかアイドルが稚拙な演技で泣き叫んだりするような遅滞が一切ない。
怖ろしい情報量のお話を、人を惹き付ける映像、ときに怖ろしい映像で描ききった。

誰も見たことのないお話を誰も見たことのない語り口で2時間にまとめた。
すばらしかった。
「日本映画らしからぬ」という、褒め言葉にも貶す言葉にもなるフレーズを、この映画に対しては賛辞として使うことができる。





『シン・ゴジラ』は、非日本映画的な映画だ。

制作にあたって「日本映画にありがちなこと」を書き出して、それを丹念に潰していったんじゃないかと思える。
思いつくままに挙げてみる。

・いわくありげでもたつき気味な導入部。
・リアリティラインが低すぎる。
・矛盾に無頓着。
・ヒーロー然とした主役。
・話題性のある人物のキャスティング。
・芸能プロダクションや広告代理店などが押し込むキャスト。

・登場人物が絶叫したり絶句したり泣いたりする。
・主役、脇役の親兄弟や恋人を描く。
・必然性のない恋愛の画面が挿入される。
・登場人物に「いわくありげな過去」がある。 
・過去の忌まわしい事件や失敗や屈辱が登場人物の行動を支配する。
・予算不足を補うかのような、状況を延々と話す「説明セリフ」の多用。
・重要と思える場面がセリフの説明で終わり、映像的な快感は得られない。
・役にふさわしくない言葉を用い、その役らしくない振る舞いをする。
・役に適合した服装や装身具を身に付けていない。
・役に合った道具を使わず、プロダクト・プレイスメントの製品を使う。

・ストーリーも画面も情報量が少なくて薄い。
・死の場面に時間を消費し、ときに映画のバランスがおかしくなる。
・死に過剰な意味を持たせる。
・情に訴える場面を用意する。いわゆるお涙頂戴。
・アップ画面の連続で画をつなぐ。
・テンポが悪い。
・タイアップの歌が挿入もしくはエンディングで使われる。
・タイアップの歌はときとして映画の内容と関係がない。

「日本映画にありがちなこと」をそぎ落とした『シン・ゴジラ』は観始めたらエンドクレジットまで目を離せない、圧倒的な吸引力を得た。

冒頭、いきなり異変が発生する。その対策を話し合う会議、また会議。虚しい言葉の応酬が繰り返されるなか、ついに深刻な事態が発生する。
『シン・ゴジラ』は人物の描写はミニマムなものとなった。
しかし、登場人物たちの佇まいや振舞いは観ている者の想像力を刺激して、むしろ濃密さを感じさせる。
この映画は、カメラが向けられていない部分をあれこれと考えたくなる<拡がり>を得ている。
脚本も絵コンテも周到に書かれているのだ。

「日本映画にありがちなこと」は、脚本の軽視の結果でもある。
『シン・ゴジラ』は脚本がしっかりしている。そんなの当たり前と思うかもしれないが、日本映画ではまともな脚本が用意されていなかっただとか、マトモな脚本があったとしても様々な事情を反映して改変されてしまうのはよくあることだ。
庵野秀明おそるべし。
また、庵野秀明の意向を曲げずに制作したプロデューサーやスタッフもすばらしい。

「非日本映画的な日本映画」というと、『シン・ゴジラ』の前作にあたる『ゴジラ FINAL WARS』がある。
2002年に公開された『ゴジラ FINAL WARS』はハリウッドで映画作りを学んだというのがセールスポイントの北村龍平が監督した。
北村龍平が日本映画ぽい映画を嫌っているのは、この映画を観ればよくわかる。
新しさを提示したいからか、外国の格闘家を主人公にして周りが日本語を使っているのに英語で話させ(日本語吹替版では、玄田哲章が声を担当している)、悪役に濃い顔立ちでエキセントリックな演技の北村一輝がオーバーアクトをさせてる。
北村龍平は日本映画ぽい映画を嫌っているけれども、だからといってハリウッド映画を撮れるのだろうか。
「非日本映画的な日本映画」を目指しつつ、この映画ではそれがハリウッドのSFX大作の模倣というわかりやすい形で見せてくれた。
『インデペンデンス・デイ』、『マトリックス』、『X-MEN』などを剽窃し、ローランド・エメリッヒ版『ゴジラ』をバカにしつつ、往年の東宝怪獣映画や特撮映画から持ってきた要素をいろいろと入れ込んでいる。
ハリウッドの大作SFX映画みたいに大味で派手に見える画面を目指して作ったものの、作り物感が先に立つしょぼい画でしかもどこかで見たようなものばかり。
フジテレビが制作に参加するような、ハリウッドぽいハリボテ映画の系譜というものも日本にはあるので、そういった意味ではむしろ日本映画らしいと言えるかもしれない。

珍品と称するのがホメ言葉になるだろうか。
瑕疵がある珍品映画が好きだという人にはたまらないだろう。
『シン・ゴジラ』との対比で言うと、よくもこんなひどい脚本が通ったものだと感心する。「ゴジラ50周年記念」と銘打っているのに。
海底軍艦轟天号と、北村一輝の顔芸と、玄田哲章の声による熱演は良かった。一度、視聴するのをオススメしたい。
『ゴジラ FINAL WARS』の興行的な失敗でゴジラ50周年はすぼみ、ギャレス・エドワーズ監督の『GODZILLA』まで長い沈黙に入る。その理由に興味があるならば、ぜひ『ゴジラ FINAL WARS』を見てほしい。



 『シン・ゴジラ』は、日本映画的なものから離れることによって日本映画の新しい金字塔となった。
1954年の本多猪四郎監督作品『ゴジラ』とともに語られる作品である。

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