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2020/07/15

宇宙戦艦ヤマトの堕落史6|宇宙戦艦ヤマト 復活篇

「宇宙戦艦ヤマト 復活篇」は、カルト映画になりそこねた映画である。

カルト映画足りうる条件は備えていたはずだ。

ひどい出来で、期待されたほどのヒットもしなかった「宇宙戦艦ヤマト 完結編」から26年を経て登場するという無意味さ。
旧作のタッチとも違う、アップデートしたつもりが時流に全く合わないキャラクターデザイン。
センスがまるで感じられないCGの使い方。
劇場アニメだというのに、80〜90年代の濫作期のアニメのように破綻した作画。
底が浅くてご都合主義のストーリー展開に、意味のない自己犠牲の特攻。

惜しい。

一人合点して勝手に特攻して華と散る人間が立て続けに登場するあたりは、「頭が悪い映画」として少し期待したのだがなあ。
全部中途半端で、「底抜け映画」になるという華々しい破綻はなくって、ごくありふれた「失敗した映画」で終わってしまった。






これは、今回の敵役SUSの生命体である。
「異種異根の生命体」と言っているのに、このていどのイマジネーションなのだ。
弾けていない。
まったくもって弾けていない。
しかもこの魔神のできそこないみたいなやつは、長々と「ストーリーの説明」をするためにでてきただけなのだ。
「宇宙戦艦ヤマト 復活篇」を見てまず思ったのは、画にまったく魅力が感じられなかったということだった。なんか生気のない人物ばかりだった。
湖川友謙が総作画監督なのに。

「伝説巨神イデオン 発動篇」の作画に魅せられた者としては、とても悲しかった。




いや、これは正確ではない。
正しくは「」の登場人物にはまったく魅力がなく、画にも魅力を感じなかった、だな。

たとえば副艦長の大村なるキャラクターがそうだった。
この人は出てきた時から歴代のヤマトにかならず登場した<感動要員>だな、としか思えなかった。土方艦長とか山南艦長とか古代守とスターシアの娘のほうのサーシアとかと同じ、死を以って観客に感動を提供するだけの<感動要員>。
大村は、「はい!」と手を挙げてどうでもいい「感動の独白」をしてから特攻して死んだ。何の魅力も感じられない人物が死んでも感情を動かされることは、もちろんあり得ない。



ただ、大村がどこかハードゲイの雰囲気を湛えたキャラクターデザインだったのはちょっと気になる。
特攻をかける前の「感動の独白」も、独身の同性愛者が妻子持ちで年下の古代進に恋したけれども思い叶わずとも聞き取れるような内容であった。

うーん。

狙ってるのかな?そういうことはないよな。

佐々木美晴も意味不明な登場人物だ。
佐渡酒造に替わる船医なのだが、パイロットも兼務しているという伝法な口調のキャラクターだが、伝法な口調なだけで魅力は全く感じられない。
ほかの新しい登場人物も新しく出てきただけ、である。木偶人形がただ動いているだけなのだ。

「宇宙戦艦ヤマト 復活篇」の無残さ、湖川友謙の画の陳腐化を目の当たりにしてがっくりし、『伝説巨神イデオン』を改めて鑑賞した。
『伝説巨神イデオン』は人物造型と物語が魅力的であり、力のある画がそれをしっかりと補強し、声優陣の迫真の演技が支えていたのだ。

その幸福な関係は、「宇宙戦艦ヤマト 復活篇」には一切なかった。






キャラクターデザイン・作画監督を湖川友謙にしたのはミスであると言わざるをえない。

白土武をその役に据えるべきだった。
また、制作にCGを導入したのも大きな間違いだ。
そんなものは不要である。




ヤマトに必要だったのは、この描線、この力強さである。
この過剰なまでに暑苦しいキャラクターデザインである。
影もしっかり付けなければならない。
デッサンなんぞクソ食らえ、勢いに任せて太い描線で描く。これこそヤマトである。
こだわりのセルアニメ100%で、白土タッチを貫くべきだった。

それは線がほっそりとなった現代のアニメに対する強烈な批判になったはずなのだ。

戦闘シーンでももちろんCGなんか使わず、ビームも砲弾も太い描線でもってあえて「画面を汚す」覚悟で臨むべきだった。
「手作りの味」で攻めるべきだった。
ホコリや汚れや色指定ミスに撮影ミスが散りばめられたド迫力の戦闘シーンこそ、2009年のヤマトにはふさわしかった。
ヤマトは戦闘でボロボロになって宇宙空間で煙をもくもく上げ、次のカットではしれっと無傷に戻ったりするべきだった。
あと、絶体絶命になって登場人物の7割くらいは悲惨な様子で死んだり特攻をかけたりして死ぬべきだった。
26年ぶりの登場なのだ。ヤマト名物とでも言うべき「泣かせるための自己犠牲」「泣かせるための登場人物の死」をガンガンやるべきだった。
スターシャに始まる、救いの女神も意味なく出すべきだった。

SUSとの戦いで、ヤマトの乗組員は次々に死んでいって、ヤマトも七色星団の時のように大破して煙モクモクである。
艦橋には古代と娘の古代深雪、折原真帆、小林が残るのみ。
古代は特攻を覚悟する。が、そういう古代を折原真帆が制した。彼女は小林とともに重爆機に乗って出撃すると申し出るのだ。
折原真帆は通信で古代に語りかける。「私は古代艦長に恋心を抱いていたんですよ」などと、小林や古代の娘が聞いているのに。
重爆機はSUSの要塞に突っ込んで戦いは終結。
しかし、時すでに遅く、地球はブラックホールに沈んでいく。
ヤマトは満身創痍のまま、煙モクモクで銀河の中心に向かうのである。

「宇宙戦艦ヤマト 復活篇 第一部 完」

こうすれば「底抜け映画」となって、「シベリア超特急」や「北京原人」や「デビルマン」や「ラストラブ」のようになれたのではないか。
一部好事家と熱狂的ヤマトファンには経典とでもいうべきカルトな映画たり得たのではないのか。
そう思うと、「宇宙戦艦ヤマト 復活篇」のできは残念だと言わざるをえない。




1994年から15年間、時計は止まっていた。


「宇宙戦艦ヤマト 復活篇」制作が最初に発表されたのは、1994年。「ヤマト・我が心の不滅の艦(ふね)-宇宙戦艦ヤマト胎動篇-」というビデオの中で概要が紹介され、設定の一部が明らかにされた。復活篇に先立って「YAMATO2520」という新シリーズを制作し、OVAとして発売していくことも語られた。



しかし、制作はスタートすることはなく、西崎義展の会社・ウエストケープコーポレーションは1997年に倒産。
「YAMATO2520」も第3巻で中断した。
その後、西崎義展は逮捕・裁判・懲役と表舞台からいったん消える。
2004年、西崎義展の養子・西崎彰司の会社「エナジオ」が2度めの「宇宙戦艦ヤマト 復活篇」制作と2006年公開を発表するが実現はしなかった。
西崎義展出所後の2008年、3度めの制作発表が行われ、翌2009年12月に公開された。

驚いたのは、映画が1994年に発表されたストーリー/構成案がほとんどそのまま映像化されていることだった。
1980年代後半から90年代前半にかけて構想されたストーリーに、あまり手が付けられることもなく映画化されたことは驚くべきことだ。

「宇宙戦艦ヤマト 復活篇」は、大量におしろいを塗って若作りした老人のような映画だった。しかもモノの数分でおしろいが剥落してみっともない老醜をさらした。

「宇宙戦艦ヤマト 復活篇」は時代を反映していない。
時代とは無縁だ。
1983年の「宇宙戦艦ヤマト 完結編」から2008年までの25年間に起こった変化には目もくれなかったのだ。
アニメ業界は変わり、ファンも変わった。
なのに、そんなものには目もくれないで25年前のお客さんを向いて作った映画だ。
いや、実のところお客さんを向いてさえいない。
この映画は、西崎義展が西崎義展のために作った映画だ。
「宇宙戦艦ヤマトで再び脚光を浴びる自分」「宇宙戦艦ヤマトで再び大儲けをする自分」を夢見た西崎義展による、西崎義展の映画だ。

実写版「SPACE BATTLESHIP ヤマト」制作の条件として、制作が許諾されたこの作品は予算も制作期間も、その他の諸々の制約があったのだと思う。
いちばんの問題はベテラン=老人が主導権を握っていたことである。
老人とは、もちろん西崎義展である。
西崎義展は「SPACE BATTLESHIP ヤマト」原作料に「宇宙戦艦ヤマト 復活篇」制作の許諾と製作資金と監督という立場を得た。
実写版のおこぼれであり、ほんのちょっとは興行的な期待はあったのかもしれない。
しかし、結果は知っての通りである。悲惨な興行成績に終わり、西崎義展は実写版公開を待たずに不慮の死を遂げた。

西崎-12歳から13歳ぐらいの方に言いたいことがあるとすれば、今の30代、40代の大人の真似をするなと。もうひと回り上の世代は太平洋戦争の戦後から自分を犠牲にして一生懸命働き、日本を豊かにしてきた人たちです。その世代の子どもたちとの中間にあたる層は最初から恵まれすぎていて、自己中心の人が多いと思います。それは真似するなよと。

西崎義展は、このようなことをインタビューで述べている。
30代、40代のひとへの批判だ。批判どころか、侮蔑しているではないか。
まあ、よくもこんな偉そうなことを言えたものだ。
マーケティング面で見ると、西崎義展はアニメにお金を使ってくれる「コア・カスタマー」に喧嘩を売っていたのだ。この層が恵まれているからこそ、アニメにお金を使ってくれてるのだが、そのことには考えが及ばなかったようだ。
とくに40代の人たちは、かつて「ヤマト」によく貢いだ人たちじゃないか。
40代のファンたちが貢いでくれたおカネであなたは夜のお店で女を侍らせて豪遊し、豪華なクルーザーを買って武装と称して火器を買って積み込み、シャブを買って快楽に浸ったんじゃないのか。
そういうお客さんに唾を吐きかけていたのである。

<12歳から13歳くらいの、ヤマトの新しいファン層を開拓したい>魂胆というのなら、滑稽というしかない。
その世代は地球を滅亡から救うなどという物語を求めはしない。だいいちこんな頭の悪い物語など、見ようともしないだろう。





宇宙戦艦ヤマトの堕落の歴史はこれで終わるのだろうか。 エナジオが西崎義展の葬儀に際してアナウンスした「宇宙戦艦ヤマト 復活篇第2部」は、本当に実現するのだろうか。
もしかしたら、パチンコ化することで、その宣伝媒体として登場することはあるのかもしれない。

 だとしても墓場から掘り起こした死骸に化粧して無理やり躍らせるようなものでしかない。
「銀河中心にワープしてしまった地球」をいかなる理屈で元の太陽系軌道に戻そうというのか、それは見たいような気がしないでもないが。

追記
その後、『宇宙戦艦ヤマト2199』が制作されて、古くからのヤマトファンの鬱屈を引き飛ばす傑作となった。
その後、さらに『宇宙戦艦ヤマト2202』が制作されて、『復活篇』テイストに、一部コアなファンが狂喜乱舞したが、『2199』を喜んだファンはじめ、大多数が沈黙した。
「語るに値せず」 ってね。

堕落から離れることはできなかった。



5 件のコメント:

  1. 10代の子供からすれば30~40代って、もろに両親の世代ですよねぇ。

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    1. ああ、なるほど、そうですね。
      10代の人たちのうち、アニメファンだという人たちは、「ヤマト」など知らないでしょう。無理やり見せても見やしないでしょう。
      そして、西崎義展のいう理屈を理解しようという気もないでしょう。

      西崎義展の言ってることは、突き詰めると、30〜40代は「自己犠牲の尊さ」が分からない世代なので良くないってことなんでしょうかね。
      ヤマトではお馴染みの率先して特攻をするような人は尊いって、案外本気で考えていた人かもしれないですね。
      おお、やだ。

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  2. こんにちわ
    まったくそのとおりです。激しく同意します

    東郷平八郎提督は、「神明はただ平素の鍛練に努め、戦わずして既に勝てる者に勝利の栄冠を授けると同時に、一勝に満足して治平に安ずる者より直ちにこれを奪う。」といって日露戦争を締めくくりました。
    葛飾北斎は80歳での死の間際「あと10年、いやあと5年生きられれば、自分は本物の絵描きになれるのに」と悔しがって亡くなったそうです。
    もちろん松本氏にも言えることですが、西崎氏については「プロジェクトリーダーとしての己」にできることできないことを謙虚に考えていたならば、違う生き方もあったのでしょう。ただし、庵野氏が西崎氏と会見したときの様子からすれば勘違いというより彼の性格で仕方がないと思えます。本当に人間は「生きたようにしか死ねない」のものですね
    復活篇については西崎氏の「俺のおかげでヤマトは大成功した、全部俺の手柄だ」という気持ちと、成功した手法から離れることの恐れから、あのような失敗することを目的とした映画になってしまった。と思っております

    私は本放送を全部見た人間なので思うのですが、もし再放送がなければと痛切に思うことがあります
    松本氏は一生不遇だったでしょうけど、北斎になれたかもしれません。あの方は惨めだったり悔しかったりすると力を発揮するタイプです。本人からすれば何もしなくても巨匠面できる今のほうがいいかもしれませんが
    西崎氏はどうでしょうか、分相応に人に使われる人生だったでしょうが、幸せだったのではないでしょうか。まあ、手塚先生がらみの評判は一生ついて回るでしょうけど

    余談ですが、ヤマトがらみで「さん」付けされるのは「真田さん」と「メッツラーさん」なんですね。メッツラーさんの方は「存在感は半端ない道化師」にされてしまった同情ですかね。本人もきっとこたつでみかん食べながら「なんでだよ~」とボヤいていそうです

    三流の作家は自分のために作品を作り、二流の作家は客のために作品を作り、一流の作家は神に見せるために作品を作るのですからしかたないですけど

    東郷提督のその後ですが・・・
    肉じゃがという大発明をしたあと、アメリカに行って新聞記者に「日米が戦争になったらどうしますか」と聞かれ「I shall runnnaway(冗談でも言うなよってことでしょう)」と答えたぐらい見識のあった人ですが、老いてはもうろくしたようで、日本の運命をあさってに引きずっていく一人になってしまいます。晩年の功績はニミッツという偉大な弟子に恵まれたことでしょうか。皮肉なものです

    もし今度初代「宇宙戦艦ヤマト」をご覧になることがおありでしたら、あえてモノクロで視聴されることをおすすめします。松本氏の最大の欠点として「カラーがどぎつすぎる」というのがございますので、白黒で見ると違って見えるかもしれません

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  3. ヤマトにCGは不要。必要だったのは、この描線、この力強さである。
    デッサンなんぞクソ食らえ、勢いに任せて太い描線で描く。これこそヤマトである。
    戦闘シーンでももちろんCGなんか使わず、ビームも砲弾も太い描線でもってあえて「画面を汚す」覚悟で臨むべきだった。
    (以上激しく同意!!その通りです!)
    最近の2199のCGヤマト(船体のこと)を見ていても全くもってつまらない。何も感激しない。旧作の手書きヤマトの方が素晴らしい画が何点もある。(ときに破綻した画もあるがそれはそれでよし)

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  4. 2199は圧倒的に面白かったですけどね。
    地球側も決して一枚岩では無く、芹沢の息が掛かった搭乗員がヤマトに乗っていたり、ドメルは本家ロンメルに近い高潔な人物として描かれてたり。
    初代ヤマトのドメルはゲールへのパワハラなどを見るにそう優秀な軍人には感じられなくなっていたところでの、今のドメルの演出は良い。
    ただ本家ロンメル自体は意外に俗物だったという説もありますが。

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