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2017/08/22

『エイリアン:コヴェナント』と『エイリアン』シリーズ終焉

『エイリアン:コヴェナント』である。

リドリー・スコットがかの傑作『エイリアン』の前日譚を描き、しかも、人類創造の秘密にも触れる作品だから、期待するしかない。

だけど、この映画の前作、2012年の『プロメテウス』は、底が抜けたヘンな映画だった。


『プロメテウス』はイカのようなナゾの宇宙生物と人類よりも二回りくらい大きい「エンジニア」と人類が名付けた異星人の格闘がクライマックスで負けた異星人からエイリアンが誕生して咆哮するという終わり方をしたのだった。
イカにしか見えないやつと、白塗り異星人の戦いは、どこか笑いたくなる雰囲気があった。
異生物ポルノ。
なんて連想したりもした。

ウェイランド・ユタニの偉い爺さんが異星人に「永遠の命が得たい」と言ったら殺されてしまう。
最後は、首だけになった人造人間のデイヴィッドと、生き残ったショウ博士が「エンジニア」の宇宙船でもって「エンジニア」の母星に向かうのだった。





3部作の2作目だという『エイリアン:コヴェナント』を見た。
リドリー・スコットらしい美しい映像が堪能できた。

しかし。
『エイリアン』は人類と意志の通じない生命体とその生命体に寄生される運命が待つ人類と、秘密の任務を携えた人造人間(と彼に邪悪な命令をする何者か)が織りなすお話という、「型」ができている。
「信号」を発する惑星に向かい、そこでなぞの生命体に遭遇してひどい目に遭う人間たちの死に様を見る。
というのが骨子である。
で、なぜか宇宙船のクルーの行動はものすごく頭が悪いものになってしまう。

ゆえに、怪生物の餌食となるに任せる。

『エイリアン:コヴェナント』も「型」どおりに話が進む。

移民宇宙船・コヴェナントは、15人のクルー、2000の冷凍睡眠している移民、1140の受精卵を載せて新天地を目指すべく航行している。
事故の発生により、クルーは目覚める。しかし、船長は焼死。
コヴェナントは、信号を受信して信号を発信する惑星に向かった。
そこで、宇宙服も身に付けないで降り立ったクルーのうちふたりが「黒い粉」を吸い込む。すると、体内でエイリアンの幼生が急速に育って、ノストロモ号やそのほかの『エイリアン』フランチャイズと同じグチョグチョで血液がドバ~という場面が繰り返される。
未知の惑星だというのに、大気の組成とかが地球に近いという理由でもって、防護服も着ないで降り立つというあたりは、「はい、伏線ですよー」ということだろうか。

 信号は、宇宙船プロメテウスからのものだった。
『プロメテウス』では首だけだったデヴィッドがクルーたちの前に現れ、同タイプのアンドロイドであるウォルターとも会う。

時代劇とかアニメで、「まったく同じ容姿のふたりが入れ替わる」というネタをやったりする。
それを思い出した。
あと『プロメテウス』の後始末をほんの数分で終わらせるというのはむしろ潔いのかと感じ入った。
首だけになったデヴィッドの復元をどうやって行ったとか、ショウ博士の末路だとか、虚無感に囚われる。

<悪役>がわかりやすいのは、良くなかったと思う。
思わず、この人でなし!なんて言いたくもなる。
まあ人間じゃないんですけどね。

問題なのは、『エイリアン』を見続けてきた人には容易に筋が読めてしまうことと、エイリアンの描写が今ひとつ怖くもグロくもなかったという点だ。
おそろしくできの悪いセルフカバー、劣化した反復だ。

映画に深い意味を見出してしまう人は、前作が『プロメテウス』という、ギリシア神話から題名が取られていることとか、『エイリアン:コヴェナント』に登場するアンドロイドの名前はデヴィッドである。すなわち、ダビデだとか、移民宇宙船『コヴェナント』のコヴェナントとは「神との契約」を意味するだとかいうことを長文で解説するブログがいっぱいあるので検索するといいと思う。

高尚なバックグラウンドがあっても、映画の面白さ・できの良さとは全く関係ないのだ、ということを『プロメテウス』と『エイリアン:コヴェナント』が実証した。

「でもつまんないでしょ」
この一言の前に、高尚な設定はなんの意味も持たない。

リドリー・スコットは第1作の『エイリアン』につながる前日譚の3部作構想を明かしてるが、だとしたらもう1本作られるということになるのだろうか。
ホラーの「寅さん」みたいに何本も作られていくような気もする。

ゲームである『Alien:Isolation』のムービーのほうが、怖くて面白かったなあと思った。YouTubeに長尺の動画が上がってるので興味のある人はどうぞ。

ゲームのムービーがことのほか楽しめたので、「映画」という形式について、あれこれ考えてしまった。
『エイリアン』シリーズが、映画である必然性はどこまであるのだろうか。
シネコンに幅広い観客層を集めたい。
そういう映画は、マーケティング優先で、あらゆる観客が楽しめるわかりやすい筋立て、規制逃れの残虐描写の回避、映像技術を使ったハデな描写で個性がないし、インパクトもなくなってしまう。
『エイリアン:コヴェナント』は、その典型と言ってもいいような映画だと思う。

マーケティングを優先したものの、興行的に失敗した。
観客の評価も低い。
このあと予定されている『エイリアン』前日譚はおそらく制作されないだろう。

今だったら、ネット配信専用のドラマシリーズとして、肉体損壊とかの描写をおろそかにしない、エグいのを最初からやったほうが客がカネを払って成功するんじゃないかと思えるのだが、どうか。


1作目はやっぱり面白いし、よく出来てると感心した。


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