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2016/10/16

黒史郎『貞子VS伽椰子』 は映画の小説化ではない。

話題の映画で、原作小説や漫画がないものは、ノベライズされたものが出版される。
作品によっては、原作があってもノベライズが出ることがある。

ノベライズを立ち読みしてみると、映画と全く同じ筋立てで同じセリフで書かれていることが多い。
あとがきを読むと、「シナリオを元に大急ぎで書いた」などと記している書き手もいる。そういうことをあとがきに記すのも、そのまま載せるのも野暮な話だと思う。

白石晃士監督の『貞子VS伽椰子』は、2冊のノベライズが出版されている。
そのうちの1冊、黒史郎の作品は映画とはタイトルが共通しているだけだった。






映画のノベライズで、<ただ単に映画を文字に書き移したもの>は商品としては不誠実なものだと思う。
「シナリオを元に大急ぎで書いた」などと記しているライターの手がけたものはとくに。映画公開前のタイミングで本屋に並び、おそらくは時間がないなかで大急ぎで書かれて本になったのだと想像する。
ページを繰って、ページ内に余白が多くてカッコでくくられた言葉が羅列するのを目にすると怒りを覚える。
一時期の劇場アニメ映画のノベライズがひどかった。必ずと言っていいくらい余白が目立つ薄っぺらな内容だった。
完成版の脚本をもとに、ト書きを追加し、言葉だけだと意味が通じにくいセリフを修正して体裁を整えたようなものにお金を払いたくはないと思う。
映画のノベライズを買う人は、たとえば映画の追体験をしたくて手に取るのだと思う。その映画に高い関心があって、お金と時間を使ってくれる優良な顧客だ。
なのに、手に取った本は時間がない中でシナリオに毛が生えた程度のシロモノ。
映画が注目されているうちに出して売ればカネになる。

これまで、ホラー映画が公開されるとノベライズが必ず出版された。
しかし、アニメ映画のノベライズと同じように、ページ内に余白が多くてカッコでくくられた言葉が羅列する類が多い。
ホラーは描かれる怪異の根源をしっかりと描けないと<怖さ>につながらないが、映画で映し出される場面を字に起こしているだけの、工夫のないものばかり。

黒史郎が手がけたノベライズ『貞子VS伽椰子』は、作品世界は同じもので、登場する人物も、ストーリーもまったく別のものだ。
映画を見た人も、見ていない人も新しい怖さに触れることができるのだ。
ホラーとは、崩壊を記述するものである。
怪異によって日常生活が崩壊する、家族の関係が崩壊する、そこから生じる恐怖を描くものである。
ここでは売れない女優と、心霊ものライターが貞子と伽椰子というふたつの呪いに直面し、それから逃れようとする姿を描いている。
果たして呪いから逃れることはできるのか。
その奮闘を、酷薄とも言える描写で描いている。

黒史郎は「実話怪談」「ノン心霊実話怪談」の書き手として名を成し、後味の悪いストーリーの書き手として知られている。

このノベライズを映像化してほしい。
読み終わって、そう思った。

ノベライズも捨てたものではない。

映画のノベライズでも面白い作品が読める可能性は、もちろんあるに決まっている。
ただし、条件がある。
その映画が多様性を許容する構造を持つこと。
実力のある作家が執筆すること。
プロデューサー、出版社、ときに原作権者がノベライズに関して寛容で書き手に自由に書けるだけの権限を与えることができること。

なかなか難しいことではあるが。

『貞子VS伽椰子』




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