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2016/09/23

ヤマト復活篇とハーロック、松本零士と西崎義展の耄碌相似形。

「空前の出来、もはやこれは伝説だ。神話のように想像力にあふれ、壮大なスペクタクルと、今まで見たことのない映像がここにある」
(ジェームズ・キャメロン)
絶賛の言葉である。
ジェームズ・キャメロンが見た『キャプテン・ハーロック』は我々が目にした『キャプテン・ハーロック』とは違うのだろうか。

3DCG映画『キャプテン・ハーロック』の興収は日本では445万ドル、4億5千8百万円くらい。宣伝文句によると、制作費は30億円かけたそうなので、大惨敗に終わった。
キャメロンが絶賛した「今まで見たことのない映像」を見なかった日本人がほとんどだったということになる。

だいぶ前から「松本零士」は客を呼べる看板ではなかったし、『キャプテン・ハーロック』も人気がある漫画でもアニメでもなかった。「松本零士」という看板を掲げていれば何でも売れたごく短い期間に咲いた徒花のようなものだ。
松本零士の漫画『宇宙海賊キャプテンハーロック』は内容がやたら薄く、ハーロックがひたすらカッコつけて、意味ありそうでないセリフをつぶやくうちにページがどんどん消費されていくというものだった。

はっきり言って面白くなかった。


こんなガラクタに、なぜ30億円もの予算をかけるなどという企画が通ってしまったのだろうか。
きちんと世間を見ることができるプロデューサーがいたら、松本零士原作作品のアニメなど、今どき企画しないだろう。
国内市場など期待せず、外国で公開してきちんと利益があげられるとでも考えたのだろうか。
東映および東映動画は『銀河鉄道999〜イターナルファンタジー〜』という映画が興行的に大失敗した件は問題としなかったのか。あれは、「松本零士」という看板になんの効力もないことを証明したのではなかったか。

ところが、映画化は決まり、予想通り興行成績は惨憺たるものとなった。

公開から半年、DVD/Blu-rayが発売された。

キャプテンハーロック




はるか未来の物語であるかもしれないし、はるか過去の物語かもしれない。
銀河の様々な星に移民した人類は老いて、衰退の時を迎えた。人々は、故郷の地球に戻ろうと思いはじめた。だが銀河に散らばって、5000億人を数える人類すべてが地球に戻れるはずもない。帰還の優先権を巡る「カムホーム戦争」が起こった。
戦争に終止符を打ったのはガイア・サンクションという統治機構の成立だった。その結果、「地球を人類立ち入り禁止の聖域」として保護することにして、それによって和平を実現しようというものである。
しかし、その妥協の平和に反旗を翻し、自由を求めて立ち上がった一隻の宇宙戦艦があった。キャプテンハーロック率いる海賊船アルカディア号であった。かつてはガイア・サンクションの軍人として地球を守り続けた英雄だった。
それが100年前のことで、以来、ハーロックは不老不死の呪われた海賊となった。
アルカディア号の欠員募集に応募したのがヤマ。
アルカディア号のメンバーになったヤマは、志願して危険な次元振動弾の設置作業に参加する。全宇宙に百個の次元振動弾を仕掛けるのがハーロックの目的であり、ガイア・サンクションは艦隊を出撃させ、それを阻止しようとする。
ヤマの正体は、ガイアサンクション軍の長官で実の兄であるイソラの命令を受け、ハーロック暗殺のために乗り込んだ工作員である。ヤマとイソラは、幼なじみで今はイソラの妻となっているナミを巡って確執がある。
じつは、リブート作品と銘打った『キャプテン・ハーロック』の主役はハーロックではない。
ヤマこそが主人公で、イソラとの確執と和解が主軸の物語だ。ヤマが葛藤と苦悩を乗り越えて「ハーロック」になる物語が主題だ。


荒牧伸志(以下:荒牧) この映画の主人公がハーロックではない理由は、彼があまりに完成された人物だということにあります。つまり、彼は絶望せず、過ちを犯さず、彼を成長させることのできる新しい体験は存在しません。彼は象徴的存在なのです。ハーロックのような 人物を映画で生かすのは非常に困難です。人々が観るのが好きな、古典的な英雄物語をつくることができないのです。こうした理由から、わたしたちは若い登場人物を登場させました(編注:戦争の敵陣営に入ったふたりの兄弟)。

──この映画では、ハーロックは不死の存在で、彼の性質(本物か、亡霊か、非物質か)はよくわかりません。どのような考えから人物をつくり出したのですか?
荒牧 ハーロックが何者なのかについての解釈は、広く開かれています。そのことは、彼が亡霊であることを意味しません。観客が、思い通りに想像してくれればいいのです。ハーロックは理想的な人物像であり、英雄であり、誰もが彼のようでありたいのです。
この荒牧伸志監督のインタビューに、「ハーロック」という存在に魅力がない理由が明示されている。


「彼は絶望せず、過ちを犯さず、彼を成長させることのできる新しい体験は存在しません」



そういう人間を主役に据えたところで、面白い物語にはなりはしない。いや、そもそも物語は成立しないのだ。
だって、神もしくは死人の立場にいる存在だから。
これこそまさに、原作漫画を読んでつまらないと感じた理由である。
かつて、松本零士が中学校の頃に生み出した「ハーロック」は理想のキャラクターだ。理想化された完成された人物で、人の心を震わせるような物語は持っていない。
たまに登場してカッコつけて意味ありげなカッコいいセリフをぶつぶつ言いつつ去るという、歌舞伎に時代もストーリーも無視して登場する源義経や加藤清正みたいな存在なのかな、と思う。

松本零士は高齢(75歳)ということもあり、忌憚なく話をしてくれた。なぜハーロックをリメイクすることになったか、荒牧のヴィジョンに満足しているかを彼に尋ねた。

松本零士(以下:松本) このヴァージョンはプロトタイプとして考えなければなりません。このCG版ハーロックは試みに過ぎず、最終的なものではありません。おそらく多くの変更が必要で、改善すべきことがあるでしょう。しかし重要なのは、ハーロックのファンがこれを認めてくれて、幻滅しないことです。

──荒牧監督に変更を求めましたか?
松本 はい。ラストに関してはそうしました。物語に巻き込まれる若い英雄がいますが、わたしは彼がハーロックの地位を奪うように見えることは望みませんでした。若いハーロックが生まれるような印象を与えるのはよくないと思いました。そこで、ふたりの違いをはっきりさせるように求めました。
これに関して、なぜこの映画ではハーロックが準主役のようなのか、まるで伝説のように現れては消える神話のようなのか、その一方で、なぜ本当の主人公が新しいオリジナルのふたりの人物なのかということは、荒牧監督に尋ねました。
http://wired.jp/2013/09/27/captain-harlock/

このインタビューは、松本零士が映画『キャプテン・ハーロック』の出来に不満を持っていることが前提になっている。「おれのハーロック像」に拘泥しているらしいことは容易に見て取れる。
荒牧監督と福井晴敏は、クライマックスにハーロックが不死の呪縛から解かれ、ヤマという青年が新しいハーロックになるという場面を用意していたのではないだろうか。
しかし、映画ではハーロックが死んだ/消失したかどうかは曖昧で、明示されていない。そのように、改変を強要されたのだと思う。

松本零士は「原作・総設定」というクレジットであれこれと妄執老人らしい口出しをしていたのではないかと思える。
そして、それはかつて西崎義展が「ヤマト」に対して行っていた振舞いに似ているように思える。

『キャプテン・ハーロック』のアルカディア号はダークマター機関という補給不要の永久機関のエンジンを積み、攻撃されても瞬時に自己修復する機能を備える戦艦である。
つまり無敵なのだ。
これは『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』の、いくら攻撃されてもまったくダメージがないヤマトにとても似ている。これは「ヤマトがボロボロになるのはかわいそう」という西崎の意向でそうなったのである。

『キャプテン・ハーロック』のクライマックスは不可解である。
ガイア・サンクションの兵士が艦内に突入、激しい銃撃戦となった。乗組員はみんな倒れて死んだかに思えたのに、後でみんな何事もなかったかのように起きだしてそれぞれの持ち場に戻っていくのだ。この描写に、合理的な説明は一切ない。
『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』では移動性ブラックホールが接近して荒天に見舞われる地球で、古代進の娘ばかりが救出されるという場面がある。
どちらもキャラクターの扱いがとても稚拙で、しかも「えこひいき」だ。「デウス・エクス・マキナ」とも言う。

『キャプテン・ハーロック』の映画製作において松本零士は「原作・総設定」なる肩書で強い立場で発言できた。
西崎義展は「企画・原作・製作総指揮・脚本・監督」だ。
ご両人とも過剰に作品に関与して、作品としての整合性よりも己のアイデアに固執して、多くの場合、それを押し通した。
老人、しかも権力を振るえる老人の典型的な行動だ。若い才能の芽を摘むことに何の躊躇も覚えない。そもそも若い才能を育てようなんて気持ちはない。
『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』も『キャプテン・ハーロック』も意欲的な若いスタッフが参画していたはずだ。しかし、彼らの力が活かせたとは思えない。

結果、作品のバランスが著しく損なわれてしまった。

この2本の映画、興収も同じくらいだった。
『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』は233スクリーンで興行収入3億8900万円。『キャプテン・ハーロック』は578スクリーンで興行収入4億5800万円。
これは深夜アニメの映画化作品にも遠く及ばない数字だ。






『キャプテン・ハーロック』は、制作に準備期間を含めて5年を費やしたという、3DCG映画である。フルCGで作られた映画である。
メカシーンや戦闘シーンなどは、見られる出来ではある。アメリカのTVシリーズの傑作『GALACTICA』ぽい引用も少なからずあったけれども。
 ただ、戦闘シーンが面白いかというと、とくに面白くはない。我々はすでにたくさんの「CGを使った戦闘シーン」を目にしている。作り手は、われわれの「既視感」を裏切る戦闘シーンをしなければならない。
「キャプテンハーロック」の戦闘シーンはその意味で面白くない。既視感のある戦闘シーンが少なくないし、CGぽさも克服できていない。



登場人物の動き、アクションは、役者を使ったモーションキャプチャで動きは滑らかだ。


しかしながら、アップになると肌の質感がのっぺりで、いかにもCG、樹脂製人形を動かしているかのようだ。「ファイナルファンタジー」から何年経ってるのだろうか。



こういう、いかにも「傷」のテクスチャを貼ってるというのはどうなのか。
松本零士的なテイストは、ほとんど排されているのはどうなのか。松本零士の、あのグニャグニャとした絵柄を3DCGで動かすという、野心的な取り組みは考えられなかったんだろうか?
そんなことを思いながら見ていた。



そして、この映画の最大の瑕疵は主人公の取り扱いである。

映画『キャプテン・ハーロック』はハーロックの死・もしくは消失を予感させるシーンの積み重ねがあった。
にも関わらず、ラストシーンではハーロックは宇宙戦艦アルカディア号の艦長の椅子にどっかりと座っているのである。霊的な存在になっているのではなく、実体として。
『キャプテン・ハーロック』は監督の荒牧伸志と脚本の福井晴敏が意図したと思われる、「ヒーローの伝承」という隠されたテーマがあったように思う。
この映画におけるハーロックは不死を得た人間である。不死を得た人間は去り、若いものが新しい時代を創る。それを描こうとする意志は感じられた。
しかし、映画のラスト、姿を消しているべきハーロックは依然として艦長の椅子にいるのである。

松本零士がどのように干渉したのか、邪推しながら見るのも一興だと思う。
なんとか「新しさ」「現代性」を出そうとする若いスタッフの努力に対して、権力のある老人がどのような振舞いをしたのか、考えながら見てほしい。

キャプテンハーロック~次元航海~ 1 (チャンピオンREDコミックス)

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