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2016/09/28

『仮面ライダー1号』藤岡弘、大独演会。

『仮面ライダー1号』という映画を観た。
仮面ライダーをやってかれこれ45年の藤岡弘、の主演作品である。



冒頭、タイの飯屋で合掌して「ごちそうさまでした」と言ったあと、からんできたチンピラどもを叩きのめしてチカラをアピール。




店を出た直後、藤岡弘、はううっと胸を押さえてさりげなく<体調が悪い>ことを明示する。財布に忍ばせた写真は、おやっさんこと立花藤兵衛の孫娘である。





日本に戻ってから藤岡弘、は、立花藤兵衛の孫娘のいる高校に現れて、生徒さん相手に生命の大事さを説教をする。


立花藤兵衛の孫娘と恋愛ぽいシチュエーションになる。


ショッカーから分派した過激なノバ・ショッカーと戦う。
ノバ・ショッカーはISIS(イスラム国)あたりから着想を得たような気もするが、よくわからない。
この作品世界では、ショッカーはなくなっていないのか。『仮面ライダーX』かなんかで大首領を仮面ライダーが結集してみんなで倒したとかいう描写はなかったか。


 ノバ・ショッカーとの闘いでは、旧ショッカーの老いた地獄大使と共闘したりもする。


 が、冒頭で示されたように、藤岡弘、は長年の闘いでからだにガタが来ている。
ガタが来すぎて死んでしまう。
が、仮面ライダー1号は絶対的なヒーローなので結局復活しました。
復活しましたが、藤岡弘、はどこかへ行きました。
きっとまた世界のどこかで悪と戦うことでしょう。
めでたしめでたし。

そういう映画だ。

あなたが藤岡弘、のマニアならば必見の映画である。

藤岡弘、が遊園地で楽しそうにデートする。
藤岡弘、ぽい人生訓が味わえる。
ロジックも整合性もクソ食らえ。
藤岡弘、の「熱さ」「暑さ」に賛意を唱えられる者たちの祝祭空間が現出するのだ。

だが、この映画は一部の熱狂的な藤岡弘、マニア以外の人にはあまり知られていない。



「本郷猛」ではない。
「藤岡弘、」なのがこの映画のキモだ。


仮面ライダー1号に変身後の姿は、45年前よりもマッシブというか太っているというか肥大しているというか、現在の藤岡弘の体型に適合させた姿になっている。
スリムで機敏な、むかしの仮面ライダー1号ではない。
これは良くない。
高額なギャラを保証した上で、藤岡弘、にダイエットして70年代の体型に戻す契約でもしたら良かったのにと思ったが、『仮面ライダー』映画の制作期間を考えるとそういうことは無理なことだった。ハリウッドで俳優に過酷なダイエットや体重の変更を促す契約をする場合には高額なギャラを保証するが、日本映画、ましてやTVシリーズの片手間に作られる映画にそんなのは無理な話だ。
なので、こうなった。

改造人間も肥るのだ。意外なことに。
藤岡弘、の肉体のなかの生身部分と機械部分の区分はどうなってるんだろう。生身部分は病気にかかったりするのだろうか。

ショッカーの戦闘員は昔ながらだ。「イーッ!イーッ!」と言う。
できれば、最初の頃のベレー帽でナイフを持った格好にしてほしかった。

映画『仮面ライダー1号』は、意図的に「藤岡弘、」にミスリードさせているか、もしくは脚本も制作も<大御所>藤岡弘、を制御できずにかれの意向を大幅に取り入れているか、どっちかだろう。この映画に関する記事を読むと、藤岡弘、は脚本に参加しているという。
プロデューサーも、監督も、そのほかの誰も、彼を御することができなかった。
そうなんじゃないかと思える。
年長でキャリアの長い、道徳かなんかに一家言あるような「ベテラン俳優」をうまく御せないのだ従わせることができないのだ。

『仮面ライダー1号』では脚本と演出もしっかり機能していない。

劇場用『仮面ライダー』や東映の特撮ヒーローリブート映画では、当たり前のことで、駄作とか愚作というのは大前提になっている。
カネを生むTVシリーズの片手間に、同じスタッフで作られるのではシナリオの開発や吟味は望むべくもなく、酷い出来の脚本で早撮りでもってパソコンでCGを追加。

映画のクライマックスは、一度死んだ藤岡弘、の復活である。
感動の場面、と拍手する人がいる。
落涙する人もいる。



場面は、時間をたっぷりかけて焦らす火葬の場面がある。
ヒロインである立花藤兵衛の孫娘が「お涙ちょうだい」な場面を演じるけれども、演技が演技で直視が困難だ。
野天で行われる、長い火葬を見つつ、改造されて機械をたっぷり埋め込んだ肉体を燃やすとどうなるのか、それを考えていた。
そもそもどのような機械を埋め込まれたのだろう。ナノマシンとかバイオテクノロジーなどまだない時代で、TVシリーズの「改造手術」の場面ではゼンマイとかネジとか銀紙とかハンダでくっつけた跡のようなものが見えていた。
この45年間、機械部分のメンテナンスはどうしていたのかとか、不具合のあるパーツが出たときはどうしていたのだろうかと考えていた。
そのうちに、腰につけたベルトが炎に煽られて回って藤岡弘、は復活して仮面ライダーになっていた。




「一度死んだ本郷猛の復活」は、発想が貧困すぎやしないか。

制作側は、ヒーローの精神と正義の不滅性をたからかに謳いたいのだろう。

それはわかる。
しかし、それを描くために「一度は悪の前に命を喪ったヒーローが、ヒロイン(であるとか子供であるとか)の祈りに応えて、復活してくる」という直接的な表現をするしか思いつかないというのはどうしてなのか。
闘い続けて傷ついた英雄が、意志を受け継ぐ若者に<仮面ライダーの魂>を託するというような描写に行かないのはなぜなのか。
これからも『仮面ライダー』映画に出そうという意図でもあるのか。

この映画は『仮面ライダーゴースト』の世界を借りて展開していて、いちおう仮面ライダーゴーストに「本郷猛はおれの永遠の英雄だ」と取って付けたセリフを言わせているけれども、本筋とは関係ない。

『仮面ライダー1号』は、藤岡弘、による藤岡弘、のための映画だ。
これは藤岡弘、というジャンル映画だ。
「老い」をおそれる老人の自涜映画だ。
それをありがたがって鑑賞する映画だ。

合掌。


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