私たちは映画やマンガや小説を通じて何度世界の終わりを見てきたことだろうか。
私たちは映画を通じて数多くの破滅に立ち会ってきた。
とくにVFXが発展してからというもの、その機会はおおいに増えた。
映画は、数えきれないほど、破滅的な状況を描いてきた。破滅的な状況は大画面と大音響を駆使して描くには格好の素材なのだ。
世界は巨大な天災に見舞われ、異星人に侵略され、疫病が蔓延し、ゾンビが爆発的に増えて普通の人間を襲い、戦争が起こり、機械やコンピューターが人間に対して反乱を起こし、ヒーローは多大な被害を世界に及ぼしつつ闘い、世界は破滅の淵に立つ。
そして、いまや私たちは、世界の破滅的状況に食傷している。
おもにハリウッドのブロックバスター映画において、世界は何度となく破滅に瀕する。
レンタルDVD店の棚には破滅がいっぱいだ。
特撮、VFXの進化および劇的な低コスト化と時間の短縮化によって、映画の世界での<カタストロフ>は増える一方だ。
かくして、カタストロフのバーゲン状態に飽きてしまった。
おまけに、ハリウッド映画は、破滅に瀕した世界を描きながらも、映画の最後には<希望のようなもの>が描かれる。何故か唐突に星条旗が映ったりする。
世界は破滅から救われる。
大抵そうだ。
ティーン・エイジャーも安心して見られるよう、残虐な描写、血の出てくるような描写はない。フォーマットに準拠したエンディングが用意される。
回避された破滅、家族は絆を確かめる。
ときに、「破滅をも跳ね返す強いアメリカ」を描いて終わる。
綺麗事で終わる見世物なのだ。
世界の終わりを魅力的に描くのはむずかしい。
世界の終りをきっちりと描いた映画は驚くほど少ない。
世界の終わりを魅力的に描いた映画も驚くほど少ない。
『回路』を観終わった。
「世界の終わり」を描いていた。
それに深く魅入られた。
世界は少しずつほころびて、光を失っていく。
映画のフレームの外で、滅びが静かに進行しているのが、伝わってくる。
風景が何となく荒涼とした印象に変わっていく。日常が日常でなくなり、人の気配が消失してゆく。
陰鬱な曇天、ざらついて見える世界。
自分の知っている者が学校や会社に来なくなる。
彼ら/彼女らは行ってしまった。あとに残るのは、かろうじて聞き取れるような微かな囁きだ。
「助けて」と。
助けて、助けて、助けて、タスケテ・・・
その佇まいが、不安を掻き立てる。
この映画が作られた頃は、インターネット、とりわけWWW(ワールド・ワイド・ウェブ)の爆発的な浸透によって、「インターネット発展の先には素晴らしい世界」などというような楽観的な観測が溢れていた。
しかし、この映画においてインターネットは「死」が侵食してくる、亡びにつながる経路となるのだ。
黒沢清監督は<この世のものではない存在>を、思いもかけない描き方で提示してくる。この映画で描かれるのは「幽霊」で、その姿は言い知れぬ不安を引き起こす。
幽霊は静かに佇んでいる。
かすかに、何ごとかを呟くだけだ。
この映画を見ていると。「死後の世界」を思わずにはいられない。しかし、その世界は、ひどく寂しくて、耐え難い孤独とずうっと向き合う世界らしい。
死者たちの世界が私たちの世界を侵食して、世界は静かに滅んでいく。
静謐さを退屈だとかつまらないという人、そのようにしか捉えられないという人に、この映画は奨めない。
そのような人は、マイケル・ベイとかローランド・エメリッヒの大予算映画でも借りて、VFXでとっ散らかった、風呂敷を広げたのにきちんと畳もしない映画でも見ているといいと思う。
そのような人は、マイケル・ベイとかローランド・エメリッヒの大予算映画でも借りて、VFXでとっ散らかった、風呂敷を広げたのにきちんと畳もしない映画でも見ているといいと思う。
思い立ったら、ネットですぐに映画が見られる。
いますぐアクセスして、「不安」を味わってほしいと思う。
いますぐアクセスして、「不安」を味わってほしいと思う。
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