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2012/06/17

ドラマと映画の<過剰>

ドラマを見ていて、背中が痒くなる問題

日本のドラマってあまり見ない。
いや、見ようと思ってチャンネルを合わせたり、録画しておくものの、途中で見るのをやめてしまうことが多くて、結果として見ないのだ。

なんというか、見ていて背中がむず痒くなってくるのだ。
いまも「Wの悲劇」というのをつけて5分で背中が痒くなった。
例えば役者の大げさで大味な演技、例えば大げさな台詞、見ていて恥ずかしくなって、正視できなくなってチャンネルを替えるかスイッチを切ってしまった。
このドラマ、ありがちな大手事務所が主役を猛プッシュして作られたものなのも、イヤになるのだけれども。

記号的なんだよね。
「怒り」ならばこんな顔でこんな声で言う。台詞はこんな感じ。
「悲しみ」ならばこんな顔でこんな声で言う。台詞はこんな感じ。
・・・・
 記号的演技に記号的台詞を大仰に演じて、大仰にしゃべる。
過剰。
そう、日本のドラマには憂慮すべき問題がある。いや、ドラマだけではなく、映画にも同じ問題がある。 <過剰>という問題が。

映画やドラマを面白くするカギとは、<抑制>にある。
映画やドラマに必要なことは、<過剰>を排して<抑制>を効かせることではないのだろうか。役者の演技でも、台詞でも、音楽でも、画づくりでも過剰になったとたんに安っぽくなる。
過剰さ。
分かりやすい大げさな演技、安っぽい言葉を思い入れたっぷりに語る台詞まわし、もしくは過度に状況を描写する説明的な台詞、ベタに盛り上げるBGM、そういったうんざりする悪弊は日本のドラマにも映画にも蔓延している。
過剰さは安っぽさにつながる分かりやすい例は、愛する人が死ぬのをクライマックスにする恋愛映画だとかケータイ小説の映画化作品を挙げればいいだろうか。
大抵の「愛する人が死ぬ映画」は、登場人物が悲嘆にくれる様子や、死に至るプロセスに過剰さがある。どうもこそばゆくなっちゃう。
難病モノはストーリーが平板なので、ドラマも映画も飽きが来やすい。が、何年かの周期を経てまた作られる。





漫画のドラマ版を見ても、背中が痒くなる問題


漫画をドラマ化したものもひどい。
漫画の記号的な表現をそのまま再現するかのような場面が延々と続くのを見ればうんざりするばかりだ。マンガと映像表現が同じであっていいはずがない。
映画では「20世紀少年」がひどかった。
役者陣は原作漫画に登場するキャラクターの姿を丹念に模しており、演技も漫画の再現を試みている。





























結果は言うまでもなくひどいことになった。
原作自体、だらだらとしまりがないもので、それを上手に潤色できていなかった。
そもそも覆面の男が国を我ものにするなどというようなモチーフは、マンガならかろうじて成立するだろうけれども、映像化しても成立しないだろう。
そんな映画が3部作で作られてそれなりに観客を動員したというのはどういうわけだ。


日本のドラマ、映画はうすっぺらい。

そもそも企画やシナリオに金をかけず、煮詰めてもいないという寒々しい現状が浮かび上がる。
芸能事務所の思惑が先行して、タレントのプロモーション映像として作られるものに何を言ってもむなしいが、変わるときはくるのだろうか。

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