実話怪談本が好きなので、新刊でも古本でも目についたものを買うようにしている。たまに脱力してしまう珍本が手に入ることがあってそれがまた楽しい。
怪談の本なのにピントがずれてヘンなことになっていたり、あと書きに爆弾を仕掛けられている本があったりする。
それが今回紹介したい本である。
いま、おれの手元に大迫純一著「あやかし通信『怪』」という文庫本がある。
2002年に角川春樹事務所のハルキホラー文庫として刊行されたものだ。親本は「あやかし通信 九夜でおくる怖い話」(1991年・実業之日本社)。古本がプレミア価格で取引されて人気になっていたいたことから、編集者のオファーがあって文庫化されたという。
大迫は「あやかし通信『怪』」のあと書きのなかで、この親本は「伝説化」していたと自慢げに書いている。ネットオークションで高値で落札された瞬間を目撃したとも書いてある。おれは、両方とも買った。ブックオフで100円で手に入れた。親本のほうは初版で帯も付いていてじつにきれいな本だ。運が良かったんだな、おれ。
「あやかし通信『怪』」で紹介されている実話怪談は、どこかで聴いた話が多い。これがオリジナルかどうかは知らないが、よく知られている話が満載だ。
しかも、怖くはない。
でも、そんなことは瑣末なことにすぎない。
この本のおもしろさというか、この本が持つ妙味は、怪談以外の部分にあるのだ。
2013/04/08
2013/04/02
「ヤマトよ永遠に」と金田伊功
「宇宙戦艦ヤマト」の劇場映画は、ぜんぶ封切り時に見に行った。
けれども、どの作品も満足しなかった。
理由は質が低いからだ。
「宇宙戦艦ヤマト」はTVシリーズを再編集した作品だ。
暗闇と大きなスクリーンと大音響を通じてTVの追体験をしたという意味以上のものはない。TVアニメを映画館で見るのは質の低さがはっきりわかって辛いものだと思った。
1974年頃に制作されたTVアニメ。作画監督のクセが強く出ていて、登場人物の顔がころころ変わる。セルの塗り間違い、色のミス、撮影時にセルのゴミが映り込んでいるだとか、そういう粗が目立った。
冷静になって考えれば、何年も前のテレビで無料で視聴できたテレビアニメを切り貼りして作った「映画」なのである。しかも、再放送もされていた。
そんな作品なのに火がついてヒット、新作劇場アニメ映画につながったのだから驚きである。
「さらば宇宙戦艦ヤマト」は、封切り前日に、渋谷パンテオンという劇場の前に並んだ。西崎義展が挨拶にきた。終電で駆けつけた学生が車にはねられたりもした。
しかし、正直な話、失望した。
冒頭の「わずか1年で復興したばかりか繁栄を謳歌する地球」で萎えた。
ラストの特攻シーンでがっかりした。
「彗星都市帝国」はヤマトの波動砲で崩壊したかに思えたが、中から超巨大戦艦が出現した。古代進はたったひとりで特攻することを決めるが、特攻まで延々と愁嘆場が続き、その間、超巨大戦艦は何もしないでヤマトが特攻してくることをおとなしく待っている。
特攻などという知恵を放棄した結末。「ヤマト」は困難を知恵で乗り越えてゆくものだと思っていたのに。
劇場映画ながらも作画が雑なカットがあったり、セルのゴミが映っていたりの粗が目立った。制作期間が短かったんだろう。
「さらば宇宙戦艦ヤマト」は大ヒットしたので、続編を作ろうということになり、TVシリーズ「宇宙戦艦ヤマト2」ではヤマトの特攻エンディングを反故にした。次なる劇場映画につなげるためにテレフィーチャー(テレビ用映画)として「宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち」が作られた。
「ヤマトよ永遠に」「宇宙戦艦ヤマト 完結編」は最初のTVシリーズの幻影を求めて映画館に足を運んだ。
両方ともご都合主義が露骨になり、最初のTVシリーズが私たちに指し示した美点をことごとく潰すような作品だった。
「イスカンダル人は1年で17歳に成長する」
「沖田十三死亡は誤診。実は生きていた」
「ヤマトよ永遠に」のおはなしはこうだ。
暗黒星団帝国が地球を侵略、重核子爆弾を地表に軟着陸させる。
重核子爆弾が爆発すると、人類の脳細胞が破壊されるのだ。
宇宙戦艦ヤマトは、起爆装置のある40万光年先にある暗黒星団帝国めざして発進する。森雪は負傷したためにヤマトに搭乗できず、暗黒星団帝国の技術将校・アルフォンに助けられる。
一方、ヤマトにはスターシャと古代守の間に生まれたサーシャがわずか1年で17歳に成長した姿で古代進の前に現れる。
暗黒星団帝国はヤマトを偽の地球におびき寄せるという意味不明な作戦を取るがニセモノと見破られる。サーシャの自己犠牲で暗黒星団帝国は壊滅、地球では森雪が死が迫ったアルフォンから教えられて、重核子爆弾の起爆装置解体に成功する。
「ヤマトよ永遠に」は劇場で見たほか、後にレンタルビデオを借りて鑑賞した。
というのも、一時夢中になった金田伊功の仕事を追いかけるためである。
金田伊功の作画による戦闘シーンがあまりにも素晴らしくて、そのシーンを何回も繰り返して見た。
おまけ。ゲームに収められたムービー。
「ヤマトよ永遠に」を松本零士のテイストを濃くして再構築したもの。



けれども、どの作品も満足しなかった。
理由は質が低いからだ。
「宇宙戦艦ヤマト」はTVシリーズを再編集した作品だ。
暗闇と大きなスクリーンと大音響を通じてTVの追体験をしたという意味以上のものはない。TVアニメを映画館で見るのは質の低さがはっきりわかって辛いものだと思った。
1974年頃に制作されたTVアニメ。作画監督のクセが強く出ていて、登場人物の顔がころころ変わる。セルの塗り間違い、色のミス、撮影時にセルのゴミが映り込んでいるだとか、そういう粗が目立った。
冷静になって考えれば、何年も前のテレビで無料で視聴できたテレビアニメを切り貼りして作った「映画」なのである。しかも、再放送もされていた。
そんな作品なのに火がついてヒット、新作劇場アニメ映画につながったのだから驚きである。
「さらば宇宙戦艦ヤマト」は、封切り前日に、渋谷パンテオンという劇場の前に並んだ。西崎義展が挨拶にきた。終電で駆けつけた学生が車にはねられたりもした。
しかし、正直な話、失望した。
冒頭の「わずか1年で復興したばかりか繁栄を謳歌する地球」で萎えた。
ラストの特攻シーンでがっかりした。
「彗星都市帝国」はヤマトの波動砲で崩壊したかに思えたが、中から超巨大戦艦が出現した。古代進はたったひとりで特攻することを決めるが、特攻まで延々と愁嘆場が続き、その間、超巨大戦艦は何もしないでヤマトが特攻してくることをおとなしく待っている。
特攻などという知恵を放棄した結末。「ヤマト」は困難を知恵で乗り越えてゆくものだと思っていたのに。
劇場映画ながらも作画が雑なカットがあったり、セルのゴミが映っていたりの粗が目立った。制作期間が短かったんだろう。
「さらば宇宙戦艦ヤマト」は大ヒットしたので、続編を作ろうということになり、TVシリーズ「宇宙戦艦ヤマト2」ではヤマトの特攻エンディングを反故にした。次なる劇場映画につなげるためにテレフィーチャー(テレビ用映画)として「宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち」が作られた。
「ヤマトよ永遠に」「宇宙戦艦ヤマト 完結編」は最初のTVシリーズの幻影を求めて映画館に足を運んだ。
両方ともご都合主義が露骨になり、最初のTVシリーズが私たちに指し示した美点をことごとく潰すような作品だった。
「イスカンダル人は1年で17歳に成長する」
「沖田十三死亡は誤診。実は生きていた」
「ヤマトよ永遠に」のおはなしはこうだ。
暗黒星団帝国が地球を侵略、重核子爆弾を地表に軟着陸させる。
重核子爆弾が爆発すると、人類の脳細胞が破壊されるのだ。
宇宙戦艦ヤマトは、起爆装置のある40万光年先にある暗黒星団帝国めざして発進する。森雪は負傷したためにヤマトに搭乗できず、暗黒星団帝国の技術将校・アルフォンに助けられる。
一方、ヤマトにはスターシャと古代守の間に生まれたサーシャがわずか1年で17歳に成長した姿で古代進の前に現れる。
暗黒星団帝国はヤマトを偽の地球におびき寄せるという意味不明な作戦を取るがニセモノと見破られる。サーシャの自己犠牲で暗黒星団帝国は壊滅、地球では森雪が死が迫ったアルフォンから教えられて、重核子爆弾の起爆装置解体に成功する。
「ヤマトよ永遠に」は劇場で見たほか、後にレンタルビデオを借りて鑑賞した。
というのも、一時夢中になった金田伊功の仕事を追いかけるためである。
金田伊功の作画による戦闘シーンがあまりにも素晴らしくて、そのシーンを何回も繰り返して見た。
上記のムービーは、コスモゼロとコスモタイガーⅡが暗黒星団帝国の補給基地を攻撃するシーンである。
「ヤマトよ永遠に」、作品のデキはひどいのだけれども、このシーンを見るためだけに見る価値はある。
映像の快感に満ちたすばらしいシーンだ。このシーンは稀代にして不世出の天才アニメーターが手で描いたものである。そのアクロバティックな作画に興奮し、酔い痴れる。人の手で描かれた極上のSFX/VFXだと思う。
「好きなカットが1カットでもあったら、それはあなたにとっていい映画」という言葉が好きだ。真崎守さんのコトバだ。
この言葉に従うのなら、「ヤマトよ永遠に」は駄作だけど、私にとってはいい映画なのだと思う。
「ヤマトよ永遠に」、作品のデキはひどいのだけれども、このシーンを見るためだけに見る価値はある。
映像の快感に満ちたすばらしいシーンだ。このシーンは稀代にして不世出の天才アニメーターが手で描いたものである。そのアクロバティックな作画に興奮し、酔い痴れる。人の手で描かれた極上のSFX/VFXだと思う。
「好きなカットが1カットでもあったら、それはあなたにとっていい映画」という言葉が好きだ。真崎守さんのコトバだ。
この言葉に従うのなら、「ヤマトよ永遠に」は駄作だけど、私にとってはいい映画なのだと思う。
「ヤマトよ永遠に」を松本零士のテイストを濃くして再構築したもの。
2013/03/21
そして誰もがアイドルを語る
奇っ怪な話だ。
日本では、少なくない数の人間が「アイドル」を語り、文章をものしている。
いい歳した連中が、自分の娘もしくはそれ以下だったとしてもおかしくない若い女の子について、熱を込めて話していたり書いたりしている場面に出くわす。
日本では、オトナが電車や地下鉄の中やカフェなどでマンガ雑誌を読んでいても誰も奇異には思わない。もちろん、マンガがそれだけの質を持っているからこそであるが。
同じように、今ではいい歳した男たちがアイドルについて語ることも当たり前の場面になってきた。
ラジオをつければ、不細工で半端なアイドルが自分のSEXスキャンダルの責任をとって坊主丸刈りにしたことの是非だとか、アイドルたちが過呼吸症候群になってるだとかグループの選挙のあり方はどうあるべきなのか、とかいう話をたっぷり時間を使ってしている。
メディアで名の売れた人間も好んでアイドルについて語る。
ジャーナリスト、作家、漫画家、ライター、社会学者、ラッパー、サラリーマン、ヤクザ、ニート、オタクなど、みんなアイドルに一家言を持ってる。
もちろん、あまたの無名な人たち、主におっさん連中もまたブログやソーシャルメディアで熱ぽくアイドルを語っている。
なぜ、こんなにも多くアイドルを語りたがる人が多いのだろう。
アイドルに名を借りて、<自分が好きなタイプ>について語っているのだろうか。アイドルに仮託して、おのれの性癖や願望を吐露しているのだろうか。
「アイドル」という職業。これは考えてみれば不思議なものだ。
一般的な認識としては、アイドルとは歌を歌ってテレビの歌番組やバラエティ番組に出てくる若い女の子というものだと思う。(このエントリーでは、女性アイドルに限定して書くことにする)
ところが、歌を歌わない「グラビアアイドル」「バラドル」などという人たちも、存在している。雑誌のグラビアやウェブサイト上の有料写真集やイメージビデオが活動の主体で、イベント活動をしたり、レースクイーンをしたり、少し名が売れた者はテレビに出たりする。
アイドル。
テレビや雑誌を席巻するメジャーから路上や動画配信で活動するマイナーまで多様なグラデーションがあるのが驚きだ。本当に細分化しているようだ。
小さなライブハウスでごく限られたひとを相手に歌い、CDをパソコンで1枚1枚焼いて手作りのパッケージで売る地下アイドルもしくはライブアイドル。
鉄道マニア向けのアイドル、歴史マニアのアイドル、ポッチャリしたアイドル、樽ドル。
細分化は果てない。
アイドル業界の現状は、傍観者というか、外側に身を置くものからすればよくわからないというのが本当のところ。
集団アイドルというのはどんなものだろうかと、検索したり映像を見たりしてみた。すると、アイドルやその候補生だというブサイクな若い女の子を数百人だか集め、入れ替わり立ち代り劇場で公演に出演させる。上位メンバーをテレビなどのメディアに露出させる。ブサイクな集団の上位なので、ブサイクの度合いが多少は減じているという程度だ。そのなかに何人か比較的まともな女のコを混ぜ込んではいる。そういう存在だ。
なんだか<大儲けして調子に乗っているバッタ屋>みたいでどうにもいただけない。
売り場に並ぶ商品を仔細に眺めると、おそろしく作りの悪い安物ばかりだし。
単純にいうと、まるっきりそそられない。
テレビや雑誌から遠く離れた今となっては、集団アイドルの跋扈は、ヘンなできごとであるという感慨を持つ。
私は眼福を味あわせてくれるかわいらしいアイドルが好きだ。気に入ったアイドルの写真など眺めながら、あらぬ妄想を楽しむのが好きだ。
いま、テレビも雑誌も集団アイドル構成員がほとんどを占拠して、ほかのかわいいアイドルが世間の目に触れる機会を著しく奪っている。さして美しくもないものを愛でる人が恐ろしい数存在していることは、嘆かわしいことだ。
さて、冒頭の写真の女の子。
どう思います?
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