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2020/07/15

西崎義展と宇宙戦艦ヤマト Part1

西崎義展と宇宙戦艦ヤマトについて、色々なテキストや数々の発言から拾ってみる。
このページは、個人的な備忘録である。
予め、予告しておくが、文字量はバカみたいに多くなると思う。

西崎義展がどういう人であったかの一端を覗き見たいと思ったので、検索で西崎義展とヤマトについて書かれたテキストを集めてみた。それを「カットアップ」で再構成しようとお思っている。
カットアップは、フレーズをバラバラにして組み立てなおす、執筆や音楽制作で用いられる手法の一つである。





まずは、放送の2日前にラジオドラマ版「宇宙戦艦ヤマト」のシナリオ執筆を依頼された藤川桂介氏のおはなし。
ラジオドラマ版は、4時間に及ぶ生放送だった。

魔法のクスリ

○藤川桂介、西崎義展を語る

「宇宙戦艦ヤマト」の映画での大ヒットに目をつけて、ニッポン放送では、そのラジオ・ドラマを生放送しようという企画を持ち込んできました。
いつものことでしたが、話が決まってぼくに脚本の依頼があったのは、実に放送の二日前といった状態です。
かつてラジオ・ドラマを書いていたとはいっても、無茶苦茶な話です。
しかしこんな切羽詰まった状態で、あの膨大な話を、すぐにまとめられるのはぼくしかいません。結局引き受けざるを得ませんでした。

ストーリーの全容は熟知しているので、全体像をきめることは、そう難しいことではありませんでしたが、それでもいよいよ脚本を書く状態になったのは、午前二時近くになってしまっていました。
それまでさんざん打ち合わせをしてきているので、疲れも極限にきていました。
いよいよ執筆というところまできたところで、睡魔が襲い始めたのです。
「もう駄目だ」と思いました。
実はここへ入るとき、プロデューサーのN氏が、
「眠くなったら、これを飲んでください。おまじないです」
小粒の錠剤をひと粒渡してくれたんです。
ぼくはそれを、コップに注いだ水と一緒に置きました。
「怪しけなものではないのか?」
&そんな不安があって、それを呑むことに躊躇しました。しばらく睡魔と、白い錠剤とのにらめっこがつづきました。しかし原稿を書こうと思っても、ただ眠くなるだけです。ついにぼくは決心をして、その「おまじない」を飲み込んだのでした。

あーら不思議。それから数分も経たないうちに、睡魔からも解放されて、妙にうきうきとしてくるのです。もう午前三時は間近。ぼくは夢中で書き始めました。一気に書いて、ついに約束の午前八時には、原稿を持ってロビーへ下りて行ったのです。

それにしてもあの魔法の錠剤は何だったのでしょう。
一説では鬱病の薬だということでしたが??

藤川桂介 『アニメ・特撮ヒーロー誕生のとき ウルトラマン、宇宙戦艦ヤマトから六神合体ゴッドマーズまで』 ネスコ、1998年




西崎義展

西崎 義展(にしざき よしのぶ、正式には「西﨑義展」、1934年(昭和9年)12月18日 - 2010年(平成22年)11月7日)は、プロデューサー。本名:西崎 弘文(にしざき ひろふみ)。

アニメ作品『宇宙戦艦ヤマト』のプロデューサーであり『海のトリトン』『ワンサくん』『宇宙空母ブルーノア』などを企画製作した。

(ウィキペディア)



「西崎義展と宇宙戦艦ヤマト Part1」の1回目は、ヤマトを巡って西崎義展と仕事をした人だとか、友人の声を集めてみた。

最初は、富野由悠季の発言。
富野由悠季は、アニメーションで<表現>ができることを見せてくれた。
作品を通じて、アニメーションの創り手を生み出した、日本のアニメ界最大の貢献者である。
富野喜幸(富野由悠季)は、ヤマトに参加して絵コンテを担当するも、西崎義展と大げんかして降板した。
西崎義展という存在が「機動戦士ガンダム」を生み出す上で大きな力になっているのがわかる。

ガンダムを作るきっかけは
「ヤマトをつぶせ!」

富野由悠季

質問 ホワイト・ベースとヤマトはどっちが強いのですか。

富野 聞くも愚問で、波動砲さえかわせればホワイト・ベースが強いにきまっています。

(アニメージュ1979年12月号 ファンからのここが聞きたいガンダム67の質問 「ガンダムの現場から」より抜粋)

富野 ガンダムを作るきっかけですが、以前にも少し話したんですけど、本音はただ一つです。ごたいそうなものじゃなくてね、「ヤマトをつぶせ!」これです。他にありません。

編集部  でもその目的は一話で有線ミサイルが出たときに達成されたのでは?

富野 ええ、松崎君(シナリオの松崎健一)も一話でヤマトを越えたと言ってくれましたんで安心してます(笑)
そして2番目の本音ですが、やっぱりこれは越えられなかった。(未来少年)コナンには勝てなかったね、かすめもしなかった。こりゃくやしい、ありゃくやしいですよ!いつの日か打倒コナンをやりとげたいです・・・
(1980年アニメック掲載 富野語録より抜粋)

映画「機動戦士ガンダム」の前人気は上々で、前売り券は、60万枚が売り切れた。これは前売り70万枚の記録を持つ「八甲田山」に次ぐ。アニメ映画でいえば、「宇宙戦艦ヤマト」の50万枚を突破した。「機動戦士ガンダム」の原作、総監督に携わっている者として、これほど光栄なことはない。
(1980年 「現代」掲載 ガンダムの現場からより抜粋)


西崎義展プロデューサーは、愛すべき人物ではあるが、けっして好きになりたくない。「宇宙戦艦ヤマト」をプロデュースした方である。

僕は、東映とエイケン関係の仕事はしていないので、その方面には西崎プロデューサーのような方がいらっしゃるのかもしれないのだが、僕にとっては、アニメ界ではじめて知ったタイプで、とにかくド肝を抜かれた。

しかし、トリトンでは、僕は氏とはそれほど深い関係を保たずにすんだ。西崎プロデューサーもアニメの仕事がはじめてで、数回、打ち合わせとか録音に立ち合っただけでおわったからだ。が、その強面の押し出しとか、自分の思ったことをスタッフにやらせてゆくパワーを実感して、その恐ろしさにアニメの世界にきてほしくない人だとは思った。

が、同時に、こういう営業センスを兼ねそなえたプロデューサーがいなければ、アニメの世界は変わらないだろうとも思えた。僕のこの感じ方は、多少といえどもCMの世界の大人たちを見てきたからだろう。
それまでのアニメの世界は、なんだかんだといっても子供の集団で、僕もそんな子供の世界になれすぎたために、西崎プロデューサーを好きになれなかったのだろう。
アニメの世界の周辺には大人がいたのだが、それらの大人たちはあくまで業務としてアニメの世界につき合うだけで、アニメをやっていこうという人ではなかった。が、西崎プロデューサーはアニメを商売にしていこうとした人なのだ。

その西崎プロデューサーからヤマトのコンテを手伝ってくれと誘いがあったときに、一度は断りはしたものの、氏の強引さで引き受けさせられた。

三話のコンテである。ほかの事情もあるのだが、僕はそのストーリーが気に入らず、ストーリーを改竄したコンテを渡した。当然、西崎プロデューサーは激怒し、僕を呼びつけて怒鳴りつけてリテークをくらった。僕はその日の夜からその作業をして、翌日だか翌々日だかにはシナリオどおりのコンテに描き直して納品した。

そんな経過があれば、当然、以後のコンテの仕事はこなくなる。が、僕にとってはそれが予定通りなのだからまったく構わなかった。これで西崎プロデューサーと絶縁できるということが重要なことだったからだ。

なぜ、そうして縁を切ったのかといえば、生き方の違い、作品の作り方の違いとしかいえない。が、コンテをきりながら、たしかにヤマトという作品は将来は化けるだろうという予感はもった。が、僕にコントロールさせてもらえない作品なのだから、西崎作品の手伝いをするのは苦痛だったのだ。

だが、アニメ界全体にとって、氏の存在は大きかったのは事実で、その客観的評価はすこしも崩れはしない。なぜなら、業界に新たな商売する大人が明確な形ではいってきて、良いにつけ悪いにつけプロデューサーの存在を知らしめたからである。

アニメ界にとって問題なのは、その氏のやり口をしょせんは金儲け主義の独善者だという子供が多すぎる点だ。でなければ、唯々諾々と氏にとりこまれて恥じることなく、世すぎをするスタッフがいすぎることである。

だから、僕はガンダムの企画をはじめたとき、ロボット物を使ってでも、ヤマトを落としてみせると意図したものだ。それは、氏をライバルに足りる人物だと正当に評価していたからである。それゆえ、現在にいたるまで、ヤマトの観客動員に歯が立たなかったことを口惜しく思っている。
いつかは!という思いは終生消えることがないだろう。

にもかかわらず、このころの僕は、しょせんはさすらいのコンテマンであって、一本のシリーズを任せてもらえるチャンスはめぐってはこない。二人目の子供も生まれ、将来の展望をたてないまま朽ちてゆくのか、西崎プロデューサーからちゃんとコンテの仕事をもらえるように、なぜいい子になれないのか、と情けない思いを抱えていた。
(1981年 「だから僕は」より抜粋)



富野 今回、無理矢理ツギハギ映画をつくったというのは、ぼくの本音でもあるんですが・・「ガンダム」が映画になるなら、とにかく自分でまとめたいっていう気持ちが一番強かったんです。キザな言い回しといわれてもいいですが、テレビアニメを映画化するにしても、やっぱり最後までテレビアニメの仕事をしている我々の側、つまり手元に作品をおきたかったんです。

これまで、TVアニメが映画化される場合、やれ監修者だ監督だというカタチで実写畑の人間が入り込んでくるのが通例でした。ぼくは、恥をかいても何をしても、基本的にはそういう実写畑からの人的移入を排除したかったんです。

高畑 それはよくわかります。TVを映画にする際、実写畑の人間がコミットすることは、あたりまえだみたいな風潮がありますね。

富野 そうなんです。「ハイジ」もいろいろあったみたいですけど、「未来少年コナン」が映画化される状況をみても、ぼくは、とてもじゃないけれど放置できないっていう気分にさせられたんです。ですから、たとえ売名行為といわれようと、とにかく、この「ガンダム」の映画化に際しては、絶対、実写畑の人間に渡しちゃならないと思いましたね。

高畑 それは売名でもなんでもないですよ。要するに主張ですよ。たとえ制約されている状況があったとしても、主張すべきときは主張するのが当然ですよ。

富野 そう思いました。ですから「ガンダム」がTVでオンエアされてるときに、ぼくは会社(サンライズ)に正式文書で申し入れたんです。
「将来、「ガンダム」が映画化されることがあった際、その監修者なり監督というカタチで外部(実写)の人間を導入するなら、フィルムを渡さない」って(笑)。ものすごい不安感があったんです。そのころというのが、ちょうど「コナン」が映画化されたあたりですよ。もう、ひたすら、ガードしなければならないと思ったんです。だから、おかげさまで映画「ガンダム」はツギハギにもかかわらず、なんとか客の入りもいいみたいですから、本当に良かったと思うんです。
もし失敗していたら、やっぱりアニメ畑のやつらにはやらせるもんじゃないとタタカレルでしょうし。

高畑 いや、本当に良かったですね。

富野 でも高畑さん、これが二年前だったら、ぼくだってそんなに強気には出れなかったでしょうね。
ま、去年あたりのアニメ映画にも実写畑の人が起用されてますけど・・それ以前の「ヤマト」もそうですし、「ガッチャマン」なんていう、本来つなぎようのないものをとにかくエイヤッとつないで映画館にかける状況をぼくは目のあたりに見てますからね、ムカつくんです。

高畑 なるほど・・ぼくは「ヤマト」に舛田利雄さん、「地球へ」に恩地日出夫さんを起用したということを聞いただけで、ああ、事大主義だなァって感じただけで、それ以上も以下もこだわりはありませんが。
(1981年 ロマンアルバム 機動戦士ガンダム より抜粋)

(海のトリトンを)映画にまとめるということに関しては、西崎さんか彼のプロダクションから声がかかったことは事実です。「どういう風にまとめたい?」みたいに聞かれもしましたが、どちらにしても舛田という人がやるんだろうと、僕はソッポを向きました。何でやらせてくれないんだと喧嘩をする気にもならない時代背景でしたが、当時はむしろ西崎さんがそれをやったことによって、「海のトリトン」程度でもそういう風に出来るのかということをみんなが知ったことの方が重要です。

ーでは74年の「宇宙戦艦ヤマト」第四話のコンテはどういう風にお話が。

「海のトリトン」で当然西崎さんが名前を覚えてくれていたのでしょう。最初のヤマトは松本零士先生と山本映一監督が並列みたいな形でいて、その上に西崎さんがいるという印象でしたが、山本さんも虫プロ時代の僕の上司だから、西崎さんと山本さんの間の合意で、僕に声をかけたのかもしれません。
とてもよく覚えていたのは、そのシナリオがすごくつまらなかった。

西崎さんの世代の持っているメカニック感みたいなものが陳腐すぎて、僕にはとてもじゃないけれど許容できなかったんですが、それでコンテをストーリーごと全部描き直しちゃったんです。そうしたら呼びつけられて、その時全ての主導を取っているのが西崎さんだとはっきりわかりました。

「お前、何で勝手にシナリオを直したんだ」
「つまらないから直したんだ」
「これで発注したんだし、シナリオ通りにコンテを切ってくれ」
「シナリオ通りに切ったらつまらなくなるけれどもいいか」
「いい」

といった会話が交わされました。
翌々日ぐらいに書き直したのをポンと持って行き、それでOKが出て、それきりです。
とにかく西崎主導の作品だということがわかったから、一緒に仕事をする気もなかったし、こっちもケンカを売ったんですよね。見事に縁が切れて良かったよと。それが僕にとってのヤマトです。

西崎さん個人の体臭は「海のトリトン」で何だかんだいっても知っていましたけれども、ミーティングで西崎さんが親分になってエラく張り切ってやっているのを見たときに「こりゃダメだ」と思いましたから。

「ヤマト」がああいう風にヒットしたことについて言えば、正直とても嫌な現象でしたね。ただし、アニメの製作に西崎さんのような外部の人間、つまりクリエイターではなくどちらかというと営業とか商売先発で来る人が入ってきたのはいい事だと思いました。

だから「ヤマト」で感じた嫌悪感は、実は西崎主導の作品という以上に時代が変わったとわかったからです。
手塚治虫というマンガ家と絵描き集団で始まっていたアニメというビジネスに全く異種の人が入ってきてビジネスを起こそうとしているというのが、とても抵抗あったんです。そういう意味ではウブといえばウブだったんですね。何よりもオンエア以後のところで「ヤマト」がヒットしていくプロセスを見ていった時に、やはりビジネスというのはこういうものだという部分で、西崎さん的な人のプロダクトを了解したというのはあるんです。

ただし、業種がそういう風に変質していくのを見ていくのが、あの年代の頃は嫌だったんでしょうね。
マーチャンダイジングで、後に「ガンダム」などで確立されるような、おもちゃの販売のために映像があるといった・・

「ヤマト」は全く逆です。プラモデルがそんなに売れるわけはないし、それで潤うわけはない。あくまでも<芸能>という部分で、興行師に近い人がアニメで商売出来ると思い、映像作品レベルでペイできる状態にしようとしたということで、その志は良しですよ。だからまずTVのダイジェスト版の映画をヒットさせ、次のオリジナル映画の製作まで売り込んだんです。それが僕は悔しかったのと同時に、アニメも捨てたもんじゃないなとも思いました。でも「ヤマト」のひとり勝ちにしたくなかったので、「ガンダム」を始めた時には<打倒西崎>を意識する必要があったし、何よりも西崎さん的なプロデュース論を、みんな真似して欲しいと思いました。
(2000年「富野全仕事」より抜粋)


;富野由悠季の文章も発言もインタビューも、みんなとても面白いし興味深い。

コンテをきりながら、たしかにヤマトという作品は将来は化けるだろうという予感はもった。が、僕にコントロールさせてもらえない作品なのだから、西崎作品の手伝いをするのは苦痛だったのだ」という発言は注目に値する。
この発言には『宇宙戦艦ヤマト』から『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』にいたるまでの、作品が抱えている大きな問題点を指摘しているからだ。
作品が西崎義展によってコントロールされ、クリエイターはそれに従いながら、作品を作ってきたという問題点だ。

「お前、何で勝手にシナリオを直したんだ」
「つまらないから直したんだ」
「これで発注したんだし、シナリオ通りにコンテを切ってくれ」
「シナリオ通りに切ったらつまらなくなるけれどもいいか」
「いい」

この会話に問題は集約されていると思う。
「つまらない」ものであっても、作品をコントロールしていたのが西崎義展だったから、『さらば宇宙戦艦ヤマト』以降の作品はあのようになった。
<宇宙から迫り来る未知の脅威>であり<地球の危機>であり<登場人物の特攻礼賛>であり、<唐突に語られる愛>であったり。
そういう「つまらない」ストーリーはみんな知っていたはずだが、でも西崎義展の強権の前にはそれを問題にすることはできなかったのだ。

スタッフはどうして唯唯諾諾と従ったのか。
富野由悠季や安彦良和のように降板しなかったのか。
本稿の終わり頃に答えになりうる発言を紹介する。




「ガンダム」を作るときに「ヤマト」と決定的に
違ったのは、物量が比較にならんのですよ。


ヤマトの物量に及ばないガンダム(キャラクターデザイン 安彦良和氏)
「ヤマトがきっかけになったとは思いますね。あれの5分くらいのパイロットフィルムを見に行ったことがありまして、そのときの衝撃というか、こういうことをされてしまった、これからどうしたらいいんだろうというショックがあったですね。途中、ぼくは「ヤマト」につきあったんですけれど、やっぱり何かしでかされるとそのあとがしんどくなる。そこのところで底上げされるわけですね。だけど誰かが底上げしていってくれないとダメなんですよ。ただ、「ガンダム」を作るときに「ヤマト」と決定的に違ったのは、物量が比較にならんのですよ。
ぼくは「ヤマト」でコンテを書くことになって、創映社(現サンライズ)から桜台のスタジオまで通ったんですけど、行って驚いたんです。創映社で当時、「0テスター」っていうのをやってたんですよね。その3シリーズくらいイッペンにできるなって思った。とにかく豊富な物量があって、ああいうアタックの仕方が可能になるのかって納得したんですよね。「ガンダム」の場合には、それがもう全くないわけ(笑)。だから、そういう意味ではもう一発底上げしてやろうみたいなことは全然なくってね。

物量でカバーできないところはしょうがないっていうんでほっといて、そのかわりストーリープランとか、アイデアで勝負できればなあというのが、富野さんにしてもぼくにしてもあった。よく言うんだけどホワイト・ベースなんていうチンケなものが43本やって1回も”中割り”で動いてないんですよ。全部引っぱって(笑)。「ヤマト」は、戦艦が10何秒かかって動くんですよね。あれがまず一つのショックだった。「ガンダム」は、ああいうこと一切やっていない。ホワイト・ベースなんていうのは単純でね、箱がこうくっついてて、ぶざまな格好をして、あれいくらでも中割りできるんですよ。色もベタだし、いくらでもできるんだけど、それをやらないし、やれないわけ(笑)。もう枷をはめちゃうんですよ、物量がないからっていう枷を。

TVの「ガンダム」で中割りなんてのは、一回もやったことないですよ。映画の新作で2カットぐらいやってるんですけどね。中割りをやろう、映画だから中割りをやろうとね。
砲塔とかなんとかが中割りで動くってのはもう、技術的な限界を越えてる。特にアニメの常識を超えてる。そういうムチャクチャをバックにやらしたっていうの・・すごいよね。
だから、西崎さんのようなファンサイドのプロデューサーとか、あるいは、松本零士さんみたいな、いわゆるビッグネームって言われる作家がいて初めてできる。
(1981年 ロマンアルバム 機動戦士ガンダムより抜粋)



「機動戦士ガンダム」は第1話冒頭、ザクのスペースコロニー潜入、有線ミサイルの描写で「ヤマト」を古くさい過去のものにしてしまった。

映画にしたときは、客が前の昼から並んでいると
報せがきて、西崎さんは感動して走り出していった。


 『宇宙戦艦ヤマト』への情熱――西崎義展さんを悼む
山本暎一(11月26日付/東京新聞)

 西崎さんが亡くなった、とファックスで知って、驚いた。

最後に会ったのは、「宇宙戦艦ヤマト 復活篇」(2009年)を、2人、事務所で見たときである。
編集のシロウトっぽさが気になり、「舛田(利雄監督)さんがやったの?」と聞いたら、
モジモジして、「近ごろはお目にかかっていないので…」という。私は、ハハーンと思った。
一から十まで自分を通すには、口うるさい監督は邪魔なのだ。
金さえ出せば、そこまで徹底するのか、と鼻白んだものだった。

出会いの最初は、45年も前だが、私がアニメ制作会社の虫プロの役員兼ディレクターとして、テレビアニメ「ワンサくん」(1973年)のプロデューサー西崎さんと相対したときである。
仕事を引き受けてもらえると思い、「じゃあ」と立ち上がる西崎さんへ、私は涼しい顔で「まだ、きめてませんけど」といった。よっぽど気にさわったのだろう、それから何度もその話をし、怒っていた。

彼は音楽ではプロだったが、アニメでは全くわからなかった。
会議で、私が文句をいいだすと、「ちょっと待って」と全員を部屋から出し、バタッと土下座をして、「教えてください」と額を床にこすりつけた。

しかし、これほどもの覚えの早い人もめずらしかった。

テレビアニメ「宇宙戦艦ヤマト」(1974年)では、下手でも黒板に絵を描いて説明し、しまいには原画まで描きそうになった。

その後、私は日本映像記録センターに所属して、外国をとびわまる日が多くなったが、戻ってくると、松本零士監督とトラブルになっていた。構成に、気にいらないところがあるらしいのだ。
企画書をまとめたのは私だったから、知らん顔もできず、各話のラフを書き、何本かは脚本にして、渡した。
すると、それからは、シナリオと絵コンテのチェックが私の役になり、ロンドンのホテルにまで航空便が追いかけてきたのには、びっくりした。

映画にしたときは、客が前の昼から並んでいると報せがきて、西崎さんは感動して走り出していった。
「ヤマト」の超大ヒットはそこからだ。

たしかに彼にとっては、アニメは金もうけの手段で、それも上手ではあったが、
作品づくりになると寝食を忘れ、異常なまでの熱の入れようだった。
やりたい放題の遺作を残したのも、いかにも西崎さんらしい、のかもしれない。


 アニメージュ2012年7月号 出渕裕×安彦良和

出渕 「ヤマトIII」の時も西崎さんがクリエイティブなことで行き詰まると、裏で山本さんに相談してる様子で、その意見を自分の意見として言ってるみたいな感じでした。
安彦 それが西崎流なんですよ。会議で煮詰まると暎一さん以外にも、僕を含めていろんなスタッフが呼び出される。「おまえは文句ありそうだな。言いたい事は言えよ。書いて出せ」と。
そのとおりにすると次の会議で「自分はこう思う」とか言い出して、それは俺の意見だよって(笑)。たぶんいろんな人で同じ事やってたと思うよ。意見をくむところは名プロデューサーだよね。
西崎氏はメチャクチャで怖い人だったけど、俺は憎んでないのね。いい人だった。あの人のおかげで違う世界が見れたし、すごい人だったね……。
出渕 僕も安彦さんと同じ印象で西崎さんの事は個人的に嫌いではないです。仕事を一緒にすると疲れるけど、端で見てる分には、とっても面白いキャラクターで、
「自信家」ってよく言われたけど、実はそうでもないんですよね。自信がないのが見え隠れしたりして、ちょっと可愛いところがある人なんですよ。

「どうせ軍艦を出すなら、空を飛んでしまうような
発想をしないと、面白くありませんよ」


藤川桂介

p102
彼は軍艦を使ったものをやりたいと言いました。
「しかし――」どう考えても海上でスピーディな話はできそうもありません。
そこでぼくはすぐに、「どうせ軍艦を出すなら、空を飛んでしまうような発想をしないと、面白くありませんよ」
発想を飛躍させることを提案したのです。
「いこう、いこう。それでいきましょう」
N氏は目を輝かせました。結局、「戦艦大和」を空に飛ばしてしまおうということになったのです。
老いも若きも日本中を沸き立たせることになった「宇宙戦艦ヤマト」は、こんな会話から誕生したのです。

p117
結局「宇宙戦艦ヤマト」にも、原作はありませんでした。
正確に言いますと、一話から三話までは、ぼくと松本零士氏と二人で打ち合わせをして
書いたのですが、その後は会議で大雑把に打ち合わせをした後、まったくぼく一人で書かなくてはならなくなりました。
大きな原因は、松本氏が番組に必要なメカのデザインを大量に書かなくてはならなくなり、ぼくと打ち合わせをする時間がなくなってしまったことでした。

藤川桂介 『アニメ・特撮ヒーロー誕生のとき ウルトラマン、宇宙戦艦ヤマトから六神合体ゴッドマーズまで』 ネスコ、1998年

じゃないんですよ。だから某プロデューサーが自分で偉そうに
言うように、あの人が宇宙戦艦「ヤマト」というネーミングを
考えたわけでもない。


松崎健一

それでだんだんいじくっているうちに、どちらかというと(第二次世界大戦中の)
日本海軍の戦艦に近くなっていたんですね。でもいまだに艦首についているすごい兵器っていうのが決まっていないので角のまま(笑)。スタッフの誰かがそれを見て「なんだこれ。長門みたいだね」って言ったんです。ブリッジが二本立ったので長門に近くなったんですよ。それで長門だとネームバリューが低いから「大和でいいじゃん」ということになった。

ーーなんと、てっきり「ヤマト」というのは戦艦大和に対するある種の宗教的な思い入れが先行して企画されたものだとばかり思っていましたが……。

じゃないんですよ。だから某プロデューサーが自分で偉そうに言うように、あの人が宇宙戦艦「ヤマト」というネーミングを考えたわけでもない。そこまで設定が決まっていた段階で、もともとの制作プロダクションだった旧虫プロが倒産してしまったので企画は1年間ペンディングというか、本来はそこで1度潰れてしまったんです。
それがなぜか復活することになって松本零士さんを引っ張ってきたのですが、その時には
もう「宇宙戦艦ヤマト」というネーミングだったわけです。それで「ヤマト」と聞いた
松本さんは自分の概念の「大和」を持ち出してきた。それであの「ヤマト」になった
んです。

「宇宙戦艦ヤマト」があれだけあたったのには
理由があります。これまで誰もやったことのない
題材を手がけたからです。


「あなたもSF作家になれるわけではない」豊田有恒著 第3章

最後に「宇宙戦艦ヤマト」について触れます。
筒井さんの一言でアニメーションから足を洗ったはずのぼくが、8年ぶりにタッチしたアニメーションです。
しかし今になってみると反省ばかり残ります。どうせタッチするからには、シナリオまでタッチすべきでした。
基本設定のほとんどはぼくといっても良いと思います。
次に、ぼくの基本設定との違いだけ列挙します。

「小惑星シップ・イカルス」→「宇宙戦艦ヤマト」 
原題「小惑星6(アステロイド・シックス)」→「宇宙戦艦ヤマト」
「核恒星系にあるイスカンダル」→「マジェラン星雲にあるイスカンダル」
「惑星ラジェンドラ」→「惑星ガミラス」

もしあの番組が成功であったとすれば、ひとえに松本零士氏のキャラクターのためと言えます。
キャラクターの魅力によりひっぱっていっただけで、SF的なアイデアもプロットもあまりありませんでした。

ただし「宇宙戦艦ヤマト」があれだけあたったのには理由があります。
これまで誰もやったことのない題材を手がけたからです。
その点こそ西崎義展さんの功績です。ともかく実現にもちこんだ努力、そして一回の放映であきらめずにファンの支持を頼りにブームを作りあげた点が偉いのです。

あんなわがまま、強引なプロデューサーの顔は
一生見ないぞ、と堅く心に誓ったはずなのに


宮川泰の語る西崎義展

 今年(昭和五十四年)もまた「ヤマト」の夏がやって来た。六年前のテレビ初放映
から一昨年の劇場映画に続いて、昨年の『さらば宇宙戦艦ヤマト』(阿久悠作詞、宮川
泰作曲)、そして今年はテレビ用映画『宇宙戦艦ヤマト・新たなる旅立ち』と書きに書き、たまりにたまったスコアは高さ五十センチを超えて積み重ねられ、毎度の音楽録音のキツさがなつかしく思い出される。

 もう、こんな疲れる大仕事は二度とやるまい。あんなわがまま、強引なプロデューサー
の顔は一生見ないぞ、と堅く心に誓ったはずなのに、また今年も引き受けてしまったと
毎年後悔しながらも、作業が始まると無我夢中で没頭してしまうのだ。また、そうなら
ざるを得ないように自分のペースに巻き込んで、仕事を完成させる西崎義展氏の情熱と
手腕は見事であり、頭にも来る。

 彼ほど音楽に自分を生かそうとする、あるいは自分の音楽を作詞、作曲、編曲、歌唱
「録音などの作業過程の中で、強引に、絶対に具現させようとするプロデューサーは空前絶後だろう。

 語例①A『さらば宇宙戦艦ヤマト』の「ヤマト」のテーマで初め出て来るミ・ド・レ
(ヤ・マ・ト)のメロディーは、譜例①Bの高いファ・ミ・レ(ヤ・マ・ト)と高揚して、
この曲のラストを締めくくるのだが、同じヤマトの三文字を初めは低く抑えて、二度昌は
宇宙へ高く舞い上がらせろ、と命令されたのには参った(でも、それがよかったのだ)。

 譜例②の劇伴音楽のメロディーは〃ヤマトの艦橋から見た遠かなる地球″のシーソの
メロディーなのに、彼は、これを大宇宙の中で、ちっぽけな人間たちの愛と戦いのドラマ
が人間らしく展開して行くさまを、哀しくも温かく包み込む、無限に広がる大宇宙のテーマとして採用した。そして、このメロディーはヤマトの主題歌と並んで、ヤマトの全作品にこの
作品の精神を表わす名曲として、大好評となった(さすが!!)。

 七月三十一日放映の「新たなる旅立ち」の中で、(スターシャ)がわが子(サーシャ)
を想う唄『サーシャ・わが愛』(阿久悠作詞、宮川泰作曲)に、彼は島倉千代子を起用した。
最初は冗談か? とみな耳を疑ったが、いや絶対彼女以外にこの内容をうたい切れる歌手は
いない!!と彼女に挑戦させ、情感細やかにうたい上げさせた。

譜例③のメロディー、終わりの「サーシャ」は原譜では下の音符、ファ・ミ・レ・レ・
ド・シとさがっていたのを「サーシャ、サーシャと呼びかけるのだから、ここは母親の
気持ちをもっと表現するため、ファ・ミ・ファー・ファ・ミ・レーと、同じ音を二度くり
返したらどうですか?」と変更させられて、結局、正解となった。本来なら、そこまで
おれの分野に立ち入るなら、手前で何でもやれ!!と憤然席をけって……となるのだが。

 毎度、言う通りになっちまう自分に腹も立つが、どうも企画、原案、総指揮の大肩書がデスラーの大マントのごとく、おどかしにかかるのでやむを得ない。当分、この希有のスーパー・プロデューサーとけんかしいしい、印税の入るのを唯一の慰めとしつつ、仕事をせざるを得ないのだ。



うっすらと涙さえ浮かべた。


阿久悠が語る西崎義展

プロデューサー西崎義展の訪問を受けて、作詞を依頼された。そこで、プロデューサーは、企画書や梗概の一節を詠嘆的に朗読し、うっすらと涙さえ浮かべた。(「宇宙戦艦ヤマト」について)
『愛すべき名歌たち』(1999)


作品の構想を話す時、いつも彼は
涙ながらになった。


小西良太郎の語る西崎義展

新歩道橋754回
2010年11月20日更新

 巨大なビルほどもある波が、大音響で崩れ落ちて来る。それに打ちのめされながら、クルーザーは眼の前の巨大な海の穴、つまりビルみたいに波がそそり立つために出来たすり鉢状の空間へ突っ込んでいく。天を見上げた形の船首が、次には奈落の底めざして落ちるのだ。その繰り返しがどのくらい続いたろう。暴風雨の中の航海である。僕は甲板の大きな箱の陰で、それにかけられた太いロープにしがみついている。しかし、頼みの綱も、滝の雨の中を箱ごと、ずりずりとずれはじめた。
 《ここで死ぬのか。こんなはずじゃなかったのに…》
 僕は歯をくいしばって耐えた。荒れる海に翻弄される恐怖に耐え、少しオーバーに言えばそんな運命に耐えた。
 昭和61年か62年の夏だと思う。「宇宙戦艦ヤマト」のプロデューサー西崎義展に誘われて出かけたクルーズ。伊豆七島あたりでのんびりして、海の幸をたらふく食べよう、給仕する女の子たちも乗せておくからさ…と言うのに、あっさり乗った。仕事の都合で油壺からの出船は見送り、調布から新島へ、セスナ機で飛んで彼らに合流する。
 「海ってのも、いいねえ、ずいぶん久しぶりだよ」
 と、相好を崩して出迎えたのは阿久悠と息子の太郎君、それに宮川泰。「ヤマト」の主題歌を書いたいわばお仲間だ。
 翌日、新島から三宅島へ向かう途中で、出っくわしたのが冒頭の惨状である。
 「少し荒れるかも知れないけど、大丈夫、大丈夫…」
 屈強のクルーが口々にそう言う。足裏に吸盤でもついていそうな身軽さで立ち働く彼らも、そのうち無口になり、やがて必死の形相になった。九死に一生を乗り切って、船は三宅島に着く。岸壁に叩きつけられそうな船を、その寸前に身をひるがえらせた運転は、西崎の手腕だった。命からがらの僕らを、島の男たちの怒声が迎えた。
 「命が惜しくねえのか。俺たちの仲間の船だってみんな、下田に避難した。暴風雨の警報だって出てるのに、一体何を考えてるんだ!」
 ことほどさように、西崎義展は剣呑な言動多めの男だった。昨今物情騒動の尖閣諸島を視察に、石原慎太郎都知事が出かけた時も、陰に彼が居た。知事一行が乗ったのが西崎の船。ふだんはフィリピンに係留してある軍艦みたいな奴で、海賊対策のために武装していると本人が話していた。その後彼は銃刀法違反、大量の薬物所持の現行犯逮捕などで服役、「ヤマト」の著作権問題で松本零士氏と係争するなどの問題を起こす。
 美意識も生活感覚も、人並みはずれていて、長いつきあいの彼を、僕はしばしば違う星の人のように感じた。しかし「ヤマト」のプロデューサーとしての情熱は、見事なほどに一途で熱かった。作品の構想を話す時、いつも彼は涙ながらになった。獄中からの手紙も、ヤマト制作で再起すると、熱に浮かされるようだった。刑期を終えた西崎は、17年越しの夢を実現、劇場版「宇宙戦艦ヤマト 復活編」を作った。
 その西崎が11月7日午後、小笠原諸島の父島で海に転落死した。船は彼の会社が持つ「YAMATO」(485㌧、9人乗り組)で、6日夜父島の二見港に入り、7日は港内で試験航海を続けていたと言う。小笠原諸島海上保安署は誤って転落した事故と見ている。
 昭和9年生まれの75才、1年と少し年上の彼を悼もうとしても、話し相手の阿久悠や宮川泰はとうに鬼籍に入っている。
 《「ヤマト」に殉じて、大好きな海で逝ったのだ。それがせめてもの慰めか》
 僕はぼんやりと今、自宅眼下の葉山の海を眺めている。対岸に富士、右手に江の島、左手に伊豆大島があり、大小の釣り船やヨットが行き来して、それを冬の陽差しが照らす。絵に書いたように平穏な海が、昔のあの暴風雨の海や、3日前に西崎をのみ込んだ海と同じなことが、当たり前なのに何だかとても妙に不思議な心地がする。

「週刊ミュージック・リポート」

数千万円の赤字を作ってしまった彼は、
「もうアニメーターは信用しない」と、ぼやいておりました。

「赤毛のアン」がテレビアニメになった日
佐藤昭司(元日本アニメーションプロデューサー)

アニメ創作に情熱を燃やした、ある新進のプロデューサーが、その熱意のあまり自分のスタジオを設け、スタッフを高級優遇して、作品づくりに乗り出したことがありました。
それまで制作には門外漢だった彼でしたが、身銭をはたき、余所よりは多くギャラを出して、スタッフと寝食を共にするようにして、テレビアニメを作ったのです。
ところが素人の悲しさ、専門用語がわからないために、説明すればするほど、現場のアニメーターは混乱するばかり。手順を無視した注文に彼のあくの強い性格も手伝って、すっかり敬遠されてしまい、高額のギャラと仕事を天秤に計って、ギャラの方に傾いたスタッフだけが残る結果となりました。

結局テレビの方も失敗に終わり、数千万円の赤字を作ってしまった彼は、「もうアニメーターは信用しない」と、ぼやいておりました。

その後、持ち前の才能を発揮して、アニメで大当たりを取った彼は、それでも二度とアニメーターを信用しようとはしなかったそうです。
「彼は札束で人をひっぱたいて仕事をさせる」「でも金がほしいから、一年ばかり我慢して行ってくる」と、いまだにアニメーターの間で、アニメ作りと無縁な低次元な話題になっています。しかし、一番孤独なのは彼の心ではないでしょうか。しかしその孤独に耐えられることこそ、男性型社会の人間の特質なのです。

こうしてテキストを読んでいくと、西崎義展がいかに『宇宙戦艦ヤマト』を作ることに情熱を傾けていたかはわかる。
しかし、日本アニメのプロデューサーだった佐藤昭司氏の「一番孤独なのは彼の心ではないでしょうか」は胸に迫る。
「手順を無視した注文に彼のあくの強い性格も手伝って、すっかり敬遠されてしまい、高額のギャラと仕事を天秤に計って、ギャラの方に傾いたスタッフだけが残る結果となりました」

本稿前半で紹介したように、富野由悠季、安彦良和は「あくの強い性格のプロデューサー」とケンカして「ヤマト」からは降りた。
「彼は札束で人をひっぱたいて仕事をさせる」「でも金がほしいから、一年ばかり我慢して行ってくる」という人々が残った。


かれらは、唯唯諾諾と西崎義展の「熱い思い」に合わせつつ、作品を作っていったが、心をえぐられる作業だったと思う。

気になることがある。

西崎義展は、虫プロ商事に在籍し、プロデュースしたアニメ作品では虫プロに在籍したスタッフが参加している。
西崎義展は、出崎統、杉野昭夫には声をかけたりしたのだろうか?もしそうだとしたら、出崎統は何と言って断ったのだろうか。

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