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2018/01/10

大胆なリブートが成功した傑作『Devilman crybaby』

鑑賞する前の予想を完璧に裏切られてしまった。
湯浅政明監督の『Devilman crybaby』である。



『デビルマン』はこれまで何度となく映像化されてきた。
TVアニメ、実写映画、3回のOVA(レンタル/セル用オリジナルアニメ)、師匠である石ノ森章太郎の代表作『サイボーグ009』とのコラボレーション・アニメ。
7度目に当たる映像化が『Devilman crybaby』である。
Netflixで世界同時配信されている。

今回のネット配信シリーズはこれまでの映像化とはまったく違っていた。
いっけん、原作から遠いが、見終わればもっとも近くにある作品だと気づく。

これはふたつの稀有な才能が結びついてできた傑作である。




『デビルマン』が何度目かのアニメ化と聞いた時点での関心事は、ふたつあった。
ひとつは、「永井豪のタッチがキチンと反映されたものになるだろうか」ということである。
『デビルマン』を描いていた頃の永井豪のすごみのあるタッチで画を動かしてほしいという希望を持ったが、『サイボーグ009対デビルマン』のような、かすかに永井豪のタッチを残したキャラクターデザインが採用されると予想していた。

二つ目は、「原作マンガのラストをきちんと描くのかどうか」である。
物語は我々人類の記憶には〈悪魔〉として記憶されている先住生物と人類の争闘を描いている。〈悪魔〉でありながら人間としての意志を持ち続けたものこそ〈デビルマン〉である。
クライマックスは人類が残酷で愚かで醜い本性を露わにして滅びたあとの〈アーマゲドン〉である。
〈悪魔〉と〈デビルマン〉の軍勢が闘う。
そして、サタンのもとに、天使の軍団が迫ってくる場面で終わる。
これがどう描かれるのか。
期待もし、不安でもあった。

『Devilman crybaby』を見た。
湯浅政明による大胆な再構築の見事さにうなった。
『デビルマン』は名作だが、半世紀近くの前の作品だ。
いま、観ることのできる形に変更しなければ、受け入れられないだろう。
それを見事にやってみせた。



まず、永井豪テイストは採用されていない。
シンプルで淡々とした描線で、永井豪の熱さを帯びた強い線とは正反対である。
でありながら『デビルマン』だった。
原作を読んだときの衝撃をふたたび味わうことができた。
昔のマンガの映像化、むかしのアニメのリメイク/リブートが増えてきた。
物語を再構築するのに、やたら複雑な設定や様々な伏線を張った作品があったりする。なんというか、「オトナの鑑賞に耐える」っていうのか、そういうのを目指しているらしいものの、肝心のおはなしが面白くない。
予算も人材もないせいなのか、作画がお粗末なものもある。
「懐かしいアニメ」にむかしのファンが喜んでカネを出すとタカをくくって粗悪なものを見せるものさえある。
『Devilman crybaby』はそういった粗悪品ではなかった。
永井豪的な描線を使わなかったが、作品世界をていねいにアップデートし、作品が持つメッセージ性を最大限尊重しつつ提示してくれた。

『Devilman crybaby』は、インターネット配信のすばらしさをわれわれに示してくれる。
テレビはもとより、映画も作家性よりも「マーケティング的な価値」に重きを置かれる商品になってしまった。
ブロックバスター映画は、児童やティーン・エイジャーの入場制限に該当してしまうのを避け、興業上の理由で表現に規制がかかり、上映時間すらも決められてしまうところがある。
例えば、侵略者による都市の破壊で、建築物の崩壊は描かれるもののガレキに押しつぶされる人は描かれない。肉塊となる残虐なシーンはない。銃を使ったシーンはマズルフラッシュと大きな銃声は聞こえるが、血は出ないし、撃たれた人体は損壊しやしない。

『Devilman crybaby』は、おそろしく(でありながら美しい)残虐なシーンも、性的な表現もいっさい逃げてはいない。
おそらくは地上波でのテレビ放映は不可能である。
湯浅政明が表現的な制約に縛られることなく、才能を尽くして作り上げた250分の革命的アニメだ。

アニメを先に見たという人は、原作を読むことをおすすめしたい。
これは最盛期の永井豪が描いた「黙示録」世界である。
神や悪魔に材を取りながら、人間の醜さや恐ろしさを容赦なく抉り出した。
まだ読んでいない人は、稀有な傑作を読める幸運を喜ぶべきである。

永井豪の原作コミック『デビルマン』は、幾度となく増補改訂版が出されているが、可能であれば最初に出版されたKCコミックス版を読むのがいいと思う。








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