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2015/11/27

ゾンビ化した『サイボーグ009』|サイボーグ009

『サイボーグ009VSデビルマン』というアニメーション映画が公開された。
2015年の秋に「イベント上映」で2週間の限定公開である。
ということは、DVDとBlu-rayの販売、さらにはネット配信で儲けることを想定しているのだろう。
ターゲットは、もちろん、40歳以降の可処分所得が多いアニメファンだ。



ひとつは1960年代、もうひとつは1970年代に描かれた。どちらも、何回となく映像化もされたマンガだ。
これをリブートだのコラボだのの単語をくっつけるとそれっぽいが、売れ残った古い品物を虫干しして縫い合わせたみたいな、怪しげな商品みたいだ。
まったく違う世界を描いているはずなのに、同じ世界にいられるのだろうか。

『サイボーグ009VSデビルマン』は、 「石ノ森章太郎」「永井豪」の名で客が反応するのか。それには興味がある。
いや、正しくはDVD・Blu-rayがどれけだけ売れるのか、興味がある。
これは若いアニメファンをターゲットにしたものではないことは言うまでもない。かつて石ノ森章太郎ファンだった人と永井豪ファンだった人の財布をあてにしているのだ。

とりわけ、「石ノ森章太郎」に反応して金を出す者がどれだけいるのか、気になる。
いま、「仮面ライダー」で石ノ森章太郎の名前は「原作」とクレジットされている。もちろん、冥界でストーリーを書いてこの世のスタッフに送り届けるなんてことはできっこないのだから、ただの名義貸しにすぎない。
で、『サイボーグ009VSデビルマン』でも名義とキャラクターが使われた。

『サイボーグ009』の名を目にすると心がうずく。

ある時期、夢中になって読んだからだ。
繰り返しくりかえし、舐めるようにして読んだ。
その作品世界も登場人物も深く愛した。
だが、ある時期以降に読まなくなった。
「天使編」「神々との戦い編」が両方とも物語の端緒を描いた思わせぶりなところで終わってしまった。これからどうなるのかというところで終わった。
石ノ森章太郎は、 「天使編」「神々との戦い編」を封印して『サイボーグ009』の単発エピソードを描くようになる。
画柄は『サイボーグ009』と同じだけれど、描かれた内容は空疎で印象には残らない。その頃のほかの石ノ森章太郎作品と同じく。




本屋に行っても、石ノ森章太郎の本業である漫画本をあまり目にしなくなった。
かつてたくさんの作品を世に出したが、ほとんどが入手できない。
もう、過去の漫画家というか、忘れられた漫画家になったのだろうか。
松本零士と同様に。

2013年、「キャプテンハーロック」という3Dアニメ映画があった。
公称30億円の予算、5年の歳月を費やして華々しく公開したはいいが、客は入らず、終了。「松本零士」という看板の集客力のなさを明らかにした。
松本零士はかつてアニメの世界にはまり込み、漫画をおろそかにした。
おそらくはアニメがもたらす莫大な収入に目がくらんだのだと邪推する。
アニメ(が持ってくる莫大な収入)に傾注する一方、漫画の画はどんどん荒れていった。コピー機で拡大縮小したメカを原稿に貼って恥じず、ストーリーは恐ろしく薄いものになっていった。
やがてアニメも賞味期限が切れて新作は絶え、ついに漫画も目にしなくなった。

もちろん、松本零士と石ノ森章太郎を単純に比較することはできない。

松本零士は短編もしくは読み切り連作が主体の作家であり、片や石ノ森章太郎は長編型作家で、1ヶ月に数百枚のマンガを量産し続けた作家だ。

石ノ森章太郎は、ある意味怪物だった。
連載を山ほど抱えているのが常で、人気雑誌には必ずと言っていいほど作品が掲載されていた時期があった。
さらに、日本経済新聞から描きおろしで『マンガ日本経済入門』を出したり、日本の歴史を描く漫画の描きおろしシリーズも手がけたりと、マンガを量産していた。
しかし、石ノ森章太郎のマンガはどんどん薄味でつまらなくなっていった。量産によって、中身はスカスカになっていった。
なので、読む意欲をすっかり喪失してしまった。他に読むべき面白いマンガがいっぱいあった。なので、石ノ森章太郎の作品に手が伸びなくなってしまった。
『サイボーグ009』については、「天使編」「神々との闘い編」を読んで大いに期待したものの、どちらも期待感を煽ったところで中断、で再開されることもなく、石ノ森章太郎は鬼籍に入る。


「天使編」「神々との闘い編」を封印し、別なストーリーで描かれる『サイボーグ009』を手にとってみたが、印象に残らない。面白くはない。
長く、石森章太郎という名前も、彼がものした作品も忘れ去った。
が、ネットを巡回してて、ウェブサイト連載で『サイボーグ009』があるのに出くわした。
これは『サイボーグ009完結編』というタイトルのマンガだ。

作画には早瀬マサトとクレジットされている。
『サイボーグ009完結編』のゼロゼロナンバーサイボーグは、赤ではなくて、青いコスチュームだ。これは、「石ノ森章太郎先生の描いた作品世界とは違うんです」とでもいうことなんだろうか。




驚いた。

これは、私が「石ノ森章太郎のタッチ」と思っていたタッチそのものである。
私が読んでいた石ノ森章太郎のマンガは、この人が描いていたのだろうか。
それとも、石ノ森章太郎のタッチは、複数の人間が共用できるようなものだったのだろうか?
「石森プロ」は、いつからか本人がメインとなって描かなくても漫画ができあがる、<プロダクションシステム>だったのか。
思えば、月刊数百枚という、すごい枚数のマンガを描いていたのは、プロダクションシステムのなせる技ということなのか。石ノ森章太郎が描いていた割合はどれくらいあったのか。
ストーリーは石ノ森章太郎が考えていたのだろうか。
ある時期から、内容が薄味に感じるようになったが、外部のブレーンやライターを使っていたんだろうか。
「天使編」「神々との戦い編」後に描かれた『サイボーグ009』とは、いったい誰が描いていたのだろうか。石ノ森章太郎だろうか。同じ画を描けるスタッフだったんだろうか。おはなしは誰が考えていたんだろうか。
そういった想像が頭のなかをぐるぐる回る。

『サイボーグ009VSデビルマン』は、金儲けのために墓場からまたもやゼロゼロナンバーサイボーグを掘り起こして、働かしているという印象だ。
またもや、と描いたのは、『サイボーグ009』はアニメ化、マンガ化、本人不在の新作と、<再利用>の思惑が甚だしいと感じたからだ。
『サイボーグ009』は週刊少年マガジン連載の「ヨミ帝国編」、ラストで002と009が流れ星と消えるラストが最後と思われたが、ふたりは冥界から戻されてマンガは描き続けられることとなる。
アニメ化と平行してマーチャンダイズの一環として、『サイボーグ009』マンガ版は石森プロダクションによって生産された。

私は石森章太郎に夢中になって、貪るように読んで育った者である。しかし、ずいぶん前に石ノ森章太郎に飽きてしまって漫画を読もうという意欲を失った者である。
しかし、貪るように読んだ時期の石森章太郎のマンガは、今読み返しても夢中になるくらい面白い。

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