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2015/11/11

西崎義展と宇宙戦艦ヤマト Part4 西崎義展の終局

西崎義展は1980年代の当初までは、独立系のプロデューサーとして有名になった。
しかし、実態は『宇宙戦艦ヤマト』を当てただけだった。
アニメも映画もあれこれ手を出したが、制作に至ることなく頓挫したとか、ヒットせずに終了したとか、そんな作品ばかりだった。

このエントリーでは、西崎義展の終わりに至る道筋を辿ってみる。
華々しい時期が思いの外短かったことに気づく。



もしかしたら、『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち [Blu-ray]』が絶頂だったのではないだろうか。

1997年、西崎義展の名が世間から消えた頃のことだ。
12月2日に覚せい剤取締法などの違反容疑で逮捕される。
1999年2月1日には、銃砲刀剣類所持等取締法、火薬類取締法、覚せい剤取締法違反で現行犯逮捕された。

実刑を受けて収監され、2007年12月19日、刑期を終えて出所した。

映画『宇宙戦艦ヤマト復活篇』をプロデューサー・監督を兼務して制作。
映画は2009年12月に公開されたが、興行的には大失敗。

2010年11月7日午後0時35分ごろ、東京都小笠原村父島の海で、遊泳目的で停泊中のウエスト・ケープ・コーポレーション所有の船『YAMATO』から転落した。
午後2時58分に医師により死亡が確認された。享年75歳だった。




西崎義展の『宇宙戦艦ヤマト』で成功を収めて以降の動向を追ってみよう。


「宇宙戦艦ヤマト」以降の西崎義展略歴

1974年10月
前年より企画を進めていたテレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』をオフィス・アカデミーで製作し放送開始。

1977年
『宇宙戦艦ヤマト』を再編集した劇場版アニメ映画がヒット。

1978年
新作映画『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』が配給収入21億円の大ヒットとなりブームを巻き起こし、以後『宇宙戦艦ヤマト』をシリーズとして展開。
巨額の富を得た。

1979年
大映映画の徳間康快・角川映画の角川春樹とともに「大藪春彦スーパー・ジョイント」を立ち上げる。
大藪春彦の代表作『汚れた英雄』を徳間書店と共同製作してプロデュースすると発表した。同じく大藪春彦の『傭兵たちの挽歌』は角川春樹事務所が製作し、西崎義展がプロデューサーを務めると発表された。
実写劇映画の初プロデュースとなるはずだったがいずれも頓挫。
同時期、吉田喜重監督による実写映画『望郷の時』(『侍イン・メキシコ』)をプロデュースして、メキシコへのロケハンまで実施されたが、これも中止。
同年実写劇映画『わが青春のイレブン』、実写ドキュメンタリーの『北壁に舞う』では音楽プロデューサーを担当。
1970年代末から1980年代前半にかけては、角川春樹や山本又一朗などとともに従来の映画会社に属さない新時代の独立プロデューサーとして注目される。

1980年
映画『ヤマトよ永遠に』公開。

1982年
出資していた山崎正友経営の冷凍食品会社「シーホース」が経営悪化に陥り、オフィス・アカデミーから約20億円が注ぎ込まれて振り出した手形の回収など、資金繰りに追われるようになった。
1982年夏、オフィス・アカデミーと関連会社を整理し、手形の処理も行った。
前述の『汚れた英雄』映画化では、20台のオートバイと10時間以上撮影したヨーロッパロケフィルムで既に3億円を投じていたが、この影響で断念して、映画化権を角川春樹に返上した。
活動の拠点をオフィス・アカデミーから、1977年12月に設立していた赤坂のウエスト・ケープ・コーポレーションへと変更として再出発。

1983年
映画1983年公開の『宇宙戦艦ヤマト 完結編』公開。
『宇宙戦艦ヤマト』シリーズも いったん終了。

1985年
『DESLAR'S WAR I 戦艦スターシャ』『宇宙戦艦ヤマト誕生篇』へ続く「ヤマト復活3ヵ年計画」の第一弾『オーディーン 光子帆船スターライト』が劇場公開されるが、 配給収入の推定は2億円と失敗に終わった。

1987年
初の実写映画プロデュースとなる本田美奈子主演の映画『パッセンジャー 過ぎ去りし日々』公開。製作総指揮を務め、劇中にはヤマト号というクルーザーが登場した。
監督は和泉聖治。
同年、経営破綻したレンタルビデオ会社『童夢』の事業を引き継ぎ、「ジャパン・オーディオ・ビジュアル・ネットワーク」を設立。
アダルトアニメ『うろつき童子』をプロデュース。ヒットするも、原作者とトラブル。

1991年
営業不振でジャパン・オーディオ・ビジュアル・ネットワークが倒産。

1993年
『宇宙戦艦ヤマト復活篇』制作を発表。

1997年
ウエストケープ・コーポレーションとともに西崎個人も破産。
この過程で資金調達のため『宇宙戦艦ヤマト』シリーズを含む製作した作品の著作権を東北新社に譲渡。
年末、覚醒剤取締法違反と銃刀法違反で逮捕。

1999年
覚醒剤取締法違反と銃刀法違反で再逮捕。
この年、下肢麻痺となり、車椅子を使うようになる。

2002年
自身が『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの原作者と主張する漫画家の松本零士と『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの著作者は誰かをめぐって裁判となり、2002年3月に勝訴。

2003年
2月に懲役5年6ヶ月の実刑判決が確定。刑務所で服役。
7月に控訴審で裁判外の和解が成立。

2007年
12月に釈放。2009年公開のアニメ映画『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』を製作・監督。

2010年
11月7日午後0時35分ごろ、東京都小笠原村父島の海で、遊泳目的で停泊中のウエスト・ケープ・コーポレーション所有の船『YAMATO』から転落、午後2時58分に医師により死亡が確認された。享年75歳。

12月10日午後2時より、東京青山斎場にて「お別れ会」が開催され、歌手のささきいさおら約400人が参列した。
松本零士が参列したかどうかは不明。

没後に公開された『SPACE BATTLESHIP ヤマト』『宇宙戦艦ヤマト2199』では、両作の原作である『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの著作者である西崎が「原作者」としてクレジットされている。



宇宙戦艦ヤマト 全記録集 設定資料版』は、アニメ制作の設定資料が高値のビジネスになるということをアニメ業界や出版業界の人間に気づかせた。

1978年、『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』が配給収入21億円の大ヒットとなったが、これは西崎義展が手にした莫大な収入のごく一部にすぎないことを付け加えておきたい。
『宇宙戦艦ヤマト』シリーズはマーチャンダイジングの際立った成功例である。
『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』の興行的成功と同時に、ヤマトの名を冠した関連書籍や商品が馬鹿売れしたのだ。
映画パンフレット、ムック、ノベライズ、豪華本の『記録全集』、プラモデル、サウンドトラック、カレンダー、みんなバカ売れして、西崎義展には莫大な印税収入が転がり込んだ。
そのカネで豪遊し、西崎義展は「赤坂のデスラー」とあだ名された。
『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』の興行的成功から1年くらいは美酒に酔ったんだと思う。

だが、1982年のオフィス・アカデミーを整理したあたりから不吉な気配が寄ってくるようになった。
かろうじて、『宇宙戦艦ヤマト完結編』公開までは仕事をしていた。
それ以降はスキャンダルが目立って、プロデューサーとしてはまともな仕事をしていたとは言えない。

1983年、『宇宙戦艦ヤマト完結編』の興行が不発に終わって、富野由悠季、宮﨑駿、押井守といったきらめく才能がアニメの世界を革新していって、ヤマトも西崎義展もアニメファンの記憶から離れていった。
西崎義展が世間の注目をあつめるのは、1990年代のなかばを過ぎてからだ。
ただし、<転落した人間>として。

西崎義展の不祥事


1997年
12月2日、東京都渋谷区の宮下公園前の路上で運転していた乗用車から、覚醒剤50グラム、ヘロイン6グラム、大麻8グラムが発見され、覚せい剤取締法などの違反容疑で警視庁渋谷署に逮捕された。

1998年
覚せい剤取締法等違反で起訴されて、6月に一審で懲役2年8月の実刑判決を受ける。西崎側は判決を不服として控訴。
1999年1月21日、控訴棄却、西崎側は上告。

1999年
2月1日、警視庁銃器対策課と静岡県警により、銃砲刀剣類所持等取締法、火薬類取締法、覚せい剤取締法違反で現行犯逮捕される。
容疑は、自宅のワゴン車に擲弾発射器付き自動小銃、小銃用実弾を約1800発、擲弾を約30発、覚せい剤20グラムを所持在欧による。
5月12日、自動小銃の密輸容疑で再逮捕。
西崎が所有するイギリス船籍の外洋クルーザーオーシャンナイン号へこれらを隠していたが、清水港のドックに入れる際に隠すため、自宅に移し替えていたとみられる。健康上の理由での保釈中の犯行だった。取り調べに対して、海賊対策のために10年前に香港で購入したと供述したが、警察は武器の密輸と転売で利益を得ようとしたのではないかとみていた。この事件の公判でフィリピン海域に出没する海賊対策のためと、同船で尖閣諸島へ上陸した石原慎太郎を警護する必要から、フィリピン沿岸警備隊の司令官から購入したと主張するも、「正当化する余地は全くない」と2001年の東京高裁判決で否定される。
6月9日、覚せい剤取締法等違反事件は最高裁で上告棄却、懲役2年8月が確定。

2000年
10月25日、銃砲刀剣類所持等取締法・覚せい剤取締法・火薬類取締法・関税法違反事件の一審で懲役5年6月の実刑判決を受ける。
西崎は不服として控訴。

2001年
9月18日、上記の控訴棄却。西崎は不服として上告。

2002年
刑期満了により出所。

2003年2月20日
2000年の実刑判決を不服とする上告棄却。懲役5年6月が確定し収監。

2007年
12月19日、刑期を終えて出所。

西崎義展は5年を刑務所で過ごした。


1999年週刊朝日8/20.27号

スクープ!
石原都知事97年尖閣諸島突入船に
自動小銃2丁・砲弾30発・銃弾1800発搭載
「宇宙戦艦ヤマト」プロデューサーがマニラで積み込む


石原慎太郎都知事(66)が一九九七年に尖閣諸島に行った船に、M16二丁、りゅう弾三十発など大量の対人殺傷銃器が積み込まれていた!本誌記者は石原氏の 友人で、船主でもある刑事裁判中の西崎義展被告(64)と以前から接触。取り交わした獄中書簡から、石原氏との関係と搭載された銃器について、その全貌を 明らかにする。
東京地裁で行われている「宇宙戦艦ヤマト」プロデューサー西崎義展(本名・弘文)被告の公判で、「石原慎太郎」の名前が飛び出したのは今月二日のことである。
アメリカ陸軍の制式銃であるM16自動小銃など、大量の銃器の密軸人事件で再逮捕されて半年。法廷での西崎破告は分厚い老眼鏡をかけ、薄い頭髪も眉も真っ白。この日は弁護側による被告人への本人尋間だった。

弁護人 M16など武器の出どころはどこだったのですか。

西崎被告 フィリピン沿岸警備隊の司令官ガルシアから調達しました。

弁護人 なぜ調達したのですか。

西崎被告 ひとつはフィリピンの海域では海賊の横行が徴しく、自衛の必要がある。二つ目は、私どもの船に石原慎太郎という要人を素せるため、それに対する防御・防衛の必要がありました。

傍聴人席がどよめいた。
石原氏と西崎被告、そして大量の銃器は、いったいどこで、どう結ぴついたのか。
実は、本誌記者は獄中の西崎被告と文通を重ね、この日の法廷前に事件の群組な経緯をつかんでいた。
石原氏が衆院議員を辞職して作家に戻っていた九七年五月六日、西村真悟代議士(当時新進党、現自由党)らと尖閣諸島への渡航を強行した。尖閣諸島といえば、 日本、中国、台湾が領有権を主張し、日中台間の懸案事項になっている場所。西村代議土が上陸後、すぐに中国外務省が抗議を表明した。
西村氏 は漁船に乗って魚釣島に上陸したが、石原氏は西崎被告所有(当時)の、漁船を改造した英国船箱船「オーシャン9号」(四九一トン)に乗り込んで島に接近し た。このときの同船には、後に西崎被告宅で発見されたM16自動小銃二丁、実弾約千八百発、M16付属の発射装置から打ち出される対人殺傷兵器りゅう弾三 十発が搭載されていたのだ。しかも、通関手続きを経ないままにである。

西村氏は、石原氏と尖関諸島に行くことになった経緯を、次のように振り返る。
「おれは尖閣諸島行きを公約に掲げていたからね。当選してすぐの九六年十月に、海上保安庁に巡視船を出してもらうよう申し入れたが、断られた。『それじゃ民間船をチャーターして』ということになったが、手がかりがないまま年を越してしまった」
西村氏は石原氏が「尖閣諸島あの島を失うまい!」と題した論文を月刊誌に発表していたことを知り、知人を介して九七年二月四日、石原氏と会った。
「尖閣に行きたいが、船がないんです」と西村氏が訴えると、「オレには船のあてがあるから、調達できたら尖閣に一緒に行かんか」と、石原氏は答えたという。
二 カ月半後の四月二十二日、二人は大田区田園調布にある石原氏の自宅で再会。フィリピン・マニラ港に停泊中の西崎被告のオーシャン9号で、石原氏はマニラか ら石垣島に向かうこと、西村氏は石垣島から乗り込み尖閣諸島に上陸する計画が決まった。石原氏はそのとき、自宅から西崎被告の船に船舶電話をかけた。石原 氏の親しげな話しぶりに、西村氏は、「ツーカーの仲やな」と感じたという。

石原氏の顧問弁護士によれば、二人のつきあいは石原氏が日生劇場の企画担当重役を務めていた六〇年代初頭に始まった。西崎被告も当時、プロデューサーとして日生劇場で活動していた。その後、いっ たんつきあいは途絶えたが、「ヤマト」がヒットした七〇年代後半に西崎被告が石原氏に再接近。二人とも海が好きだったことから意気投合し、石原氏が西崎被 告の船に招待されることもたびたびあった。石原氏は西崎被告が準備中だった「ヤマトの新作にも、「原案」として参加している。

西崎氏が九七年十二月に覚せい刑事件で逮捕されたときには、石原氏は嘆願書を裁判所に提出した。
「『こいつも変わったやつだが、それなりにおもしろいやつで年も年だし』と、しぶしぶ出していました。しかし、銃刀法違反などで今年二月に逮捕されたときには『なんちゅうやつだ」とあきれ果てていました。留置場から手紙は来ましたが、もう接触はありません」(顧問弁議士)


犯罪人となった西崎義展について、語る人はあまり多くはない。
2010年の死亡時には多少、語る人がいた。

ガチウヨ西崎義展YAMATOから転落死
2010/11/08

川本耕次

なんせ、戦艦大和を復活させようというくらいの人なので、この人、ガチウヨなんだが、石原慎太郎と組んで、尖閣諸島で中国に戦争仕掛けようとしていたという話があるわけだ。Wikipediaによれば、

静岡県の東名高速にて警察が不審車両を発見、停止を命じ、その際西崎のアタッシュケースの中から覚醒剤約50g、細粒のモルヒネ7g、大麻9g、を所持していたとして、覚せい剤取締法・大麻取締法・麻薬及び向精神薬取締法違反で逮捕・起訴され、一審で懲役2年8月の実刑判決。西崎側は判決を不服として控訴。

保釈中にフィリピンに渡航。所有するイギリス船籍の外洋クルーザー「オーシャンナイン」号にて、フィリピンより日本に帰国。その際に、グレネードラン チャーM203付M16 2丁および拳銃グロック171丁を大量の弾丸とともに国内に密輸入。この事件の公判で尖閣諸島付近に出没する海賊対策のため石原慎太郎から調達を要請され て購入したと主張するも「正当化する余地は全くない」(東京高裁判決)と否定される。

とあるんだが、これが1998年の話ですね。で、その後は21世紀のほとんどを刑務所で過ごし、最近になってやっと復活したものの、延々と著作権で裁判とかやっていて、業界ではあまり評判のよろしくないお方です。
つうか、おいらが編集者になった時なんだが、月刊OUTという雑誌が、この「宇宙戦艦ヤマト」の特集でバカ売れして、おいらはエロ劇画の編集だったんだが、 背中でOUTを作っていたもんで、この人の悪口はずいぶん聞かされたもんです。まぁ、漫画家とかアニメ関係者というのは、大人しくて気弱な人が多いわけ で、こうした西崎とか梶原一騎とか、ヤクザ並の迫力あるオッサンが絡まないと、枠を超えた作品は作れない、という側面もあるんだろう。
ところで、刑務所に収監されていた頃から、この人、身体を悪くしていて車椅子だったというんだが、歩けない75歳の年寄りがウェットスーツ姿で溺れ死ぬとい うのも妙なもんで、しかも自分の船である「485トンの元・漁業実習船」から転落というのも妙なもんで、個人でそんなデカイ船持っているなんて、加山雄三 の光進丸より大きいと思われるので、なんか妙ですw また、武器の密輸入でもして、尖閣諸島で戦争でもやるつもりだったんだろうか?

2010/11/08

「宇宙戦艦ヤマト復活編」は黒羽出身・西崎義展氏の復活劇だ
2009年12月

本間龍


さて、今日の題名を読んで誰の話かすぐに分かった方は相当のアニメファン。現在公開中の「宇宙戦艦ヤマト・復活編」の原作・制作総指揮を勤める西崎義展氏のことだ。彼は約5年を黒羽で過ごし、すくなくともその大半を私がいた第16工場で過ごした人で、2007年12月に出所し、約2年で今回の「復活編」公開にこぎ着けた、デスラー総統顔負けの生命力をもった人だ。
 その人生はまさに社会や人々との闘争そのもので、1934年生まれの75歳、尋常な闘争本能ではない。元は手塚治虫の虫プロで営業として働いていたが、その後自らの会社を立ち上げ、「宇宙戦艦ヤマト」を制作、大ヒットを飛ばす。

 実は私はヤマトを初回放映で見た最古参のファンで、公式ファンクラブ会員(もちろんもう存在していないが)、懇親会で西崎や松本零士氏とも握手したことがあり、ヤマトの制作舞台裏を結構知っている。1990年代に松本氏と著作権を巡って激しい裁判を繰り広げたが、「宇宙戦艦ヤマト」という発想自体は最初に西崎が出したものであり、松本氏は彼に招聘され、活字でしかなかったヤマトやキャラクターデザインを担当した。本来はいつまでも二人三脚でなければならない二人が骨肉の争いを繰り広げたのがヤマトの不運だ。
 彼が何故懲役刑になったかというと、先ずは1997年に覚醒剤や大麻の不法所持で逮捕。翌年保釈中に本人所有のヨットにグレネードランチャーなど(!)などの武器弾薬を所持していたところを発見され銃刀法違反で再逮捕。更に翌年自宅に覚醒剤などを所持していたとしてまた逮捕、と全く懲りない御仁で、結局5年以上もの懲役刑をくらうことになった。
 普通の人間であればもう結構な年齢だし、ここらでおとなしく人生の終焉を迎えてもおかしくないが、彼は違った。この一連の逮捕劇中にも、経営していた会社が倒産し破産を宣告されたにも関わらずヤマトの諸々の権利を巡って東北新社などと延々と裁判闘争を展開。結局約10年以上の裁判に勝利し版権関係を取り戻した結果、今回のヤマト復活となったのだ。つまりヤマトの復活は西崎義展自身の復活劇だともいえる。

 残念なことに私が16工場に入所した時に丁度彼が出所してしまったので話は出来なかった。もし一緒になれば絶対ヤマト話に花を咲かせただろうし、もしかして今回の復活編の仕事に絡めたかもしれないと思うと少し惜しい気もするが、所内での彼の評判は娑婆と全く同様、散々なものだった。
 これまで見てきたとおりの異常ともいえる生命力・闘争力の持ち主だから、恐ろしいほど自分勝手で周囲とは全く協調性がなく、ほぼ毎日揉め事ばかり起こしていたと同僚用務者から聞いた。食事時に机を拭くふきんで自分の顔を拭き、そのまま机に戻したことで周囲の受刑者と大げんかになったこともあったという。要するに、もう完全な鼻つまみ者であったらしい。
 出所僅か二年でヤマトを復活させたその執念には恐れ入るばかりだが、肝心の作品はお世辞にも面白いとは云えなかった。

 仲違いした松本零士を外したことでメカニカルデザインが妙に安っぽくなり、CGを使ってかえって線が細くなりすぎて逆に迫力が全くなくなる有様。音楽も何故か宮川泰のメロディーを殆ど使わず、何の関係もないクラシックの名曲を何度も挿入していて意図が全く伝わってこない。
 更に、脚本に何故か石原慎太郎が参加したらしく、異様に右かかった安易なヒロイズムを声高に訴えて薄っぺらい。更にハリウッド映画も裸足で逃げ出すほどのご都合主義的エンディング、更になんと次作を暗示させるテロップに至っては、観客からブーイングが起こる程で、意味不明のアルフィーの歌とあいまって極めて観賞後の後味の極めて悪い作品となってしまった。オールドファンとしては、もう西崎氏には引退してもらって、新しい制作者で「まともな」ヤマトをつくって欲しいと願うのみだ。
 同じ出所者としては西崎氏の復活を非常に嬉しく思う反面、あれだけの罪を犯した人がヤマトのパンフレットに「愛のために戦え」とか「地球環境を守ろう」としたり顔で堂々とコメントを載せているのにはなんともしらける思いがする。彼の黒羽での評判を聞く限りでは、彼が自分の罪を反省していたとはとても思えないからだ。そのコメントを全国の少年少女が読んでどう思うのか。まぁ少なくとも私の11歳になる息子は「ひどい作品だったね!」と切り捨てていたが・・・いやはや。

 もしかすると今回の映画、星間国家連合と不屈の闘いを展開するヤマトには、社会や裁判所と戦い続けた西崎氏自身の姿を投影されている?なんて悪い冗談ですよね、西崎さん。



さらば赤坂のデスラー!宇宙戦艦ヤマトの西崎義展氏死去
20101107

本間龍


「宇宙戦艦ヤマト」のプロデューサーとして有名な西崎義展氏が亡くなった。
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20101108k0000m040062000c.html

以下、毎日新聞より。

<転落死:宇宙戦艦ヤマト元プロデューサー西崎さんが船から>

 7日午後0時35分ごろ、東京都小笠原村父島扇浦沖で停泊していた汽船YAMATO(井出金吾船長、485トン)から、人気SFアニメ「宇宙戦艦ヤマト」の元プロデューサー、西崎義展(本名・弘文)さん(75)=東京都港区=が海中に転落した。
 小笠原海上保安署が引き上げたが、約2時間20分後に死亡が確認された。西崎さんはウエットスーツ姿で、遊泳するため甲板から下りる途中に誤って転落したとみられる。
 西崎さんらは同船の試験航海をしており、同日午前11時半ごろから扇浦沖に停泊。9人が乗船しており、当時は数人が遊泳していたという。同署は転落原因などを調べている。【長野宏美】


 以前、彼に対して考えていることを詳しく書いたので http://d.hatena.ne.jp/gvstav/20091223/1261549661、ここではあまり蒸し返さない。「宇宙戦艦ヤマト」という、日本のアニメの歴史を切り開いた作品を松本零士と生み出した巨大な業績は誰にも否定できない。
 しかしその後の他の作品(宇宙空母ブルーノア等)は皆泣かず飛ばずで、結局ヤマトのネームバリューに頼らざるを得ず、「さらば宇宙戦艦ヤマト」以降はダラダラと続編を量産して迷走。挙げ句の果てには松本氏と著作権を巡って骨肉の争いを演じ、自身もクスリと銃刀法違反で黒羽刑務所に入るという、まさに波瀾万丈の生涯だった。
 昨年公開された『宇宙戦艦ヤマト復活編』は松本零士を初めとする往年の優秀なスタッフを外したため、もう苦笑するしかないトホホな出来だった。結局彼がいる限り、ヤマトの未来はこれ以上開けないと思っていたら、今回の訃報。
 若かりし頃、ファンクラブの総会で出会った西崎氏は見るからに豪快な人物だった。赤坂のクラブで「真っ赤なスカーフ」をよく歌っていたらしく、「赤坂のデスラー」と言われていたらしい。元々が山師的人物だったのだが、「ヤマト」で大当たりをひいたせいで、起伏の激しい人生になったのだ。
 黒羽の16工場でも、自分勝手な言動で同囚には嫌われ、実社会でも訴訟の山を抱えていたから、決して人間的に尊敬できる人物ではない。しかし、彼がいなければ「ヤマト」が生まれなかったであろうことも厳然たる事実ゆえに、ここでは感謝の意を捧げたい。

<西崎さん、有難う。安らかに眠って下さい>


本間龍氏による、刑務所内での西崎義展の様子は興味深い。

 残念なことに私が16工場に入所した時に丁度彼が出所してしまったので話は出来なかった。もし一緒になれば絶対ヤマト話に花を咲かせただろうし、 もしかして今回の復活編の仕事に絡めたかもしれないと思うと少し惜しい気もするが、所内での彼の評判は娑婆と全く同様、散々なものだった。
  これまで見てきたとおりの異常ともいえる生命力・闘争力の持ち主だから、恐ろしいほど自分勝手で周囲とは全く協調性がなく、ほぼ毎日揉め事ばかり起こして いたと同僚用務者から聞いた。食事時に机を拭くふきんで自分の顔を拭き、そのまま机に戻したことで周囲の受刑者と大げんかになったこともあったという。要 するに、もう完全な鼻つまみ者であったらしい。
「西崎義展」という人間のパブリック・イメージを裏切らない行動である。


唐沢俊一の追悼文では、劇場版『宇宙戦艦ヤマト』のヒットにつながる、西崎義展の行動が描かれていて興味深い。


“機”を見た男 【訃報 西崎義展】
唐沢俊一

何とも謎の多い西崎義展氏死去の報が11月8日に。
自家用クルーザー『YAMATO』(『宇宙戦艦ヤマト』の最初の海外公開時のタイトルは『Space Cruiser Yamato』)からの転落死とは、不謹慎ではあるが波乱万丈であった人生にふさわしい幕切れであろう。その死に謎めいたところが多いのもまた。
毀誉褒貶定まらぬとはこの人のためにある言葉だろうが、少なくともこの人の作った『宇宙戦艦ヤマト』が私の人生ばかりでなく、その後の日本の文化シーンを大きく変えたことは事実。
岡田斗司夫のブログなどにおもしろすぎる西崎氏の話がいろいろ出てくるが、残念ながら私の会ったころの西崎氏はまだ、そんなタイクーンになっていない、ビジネスマンの頃の西崎義展だった。
76年の晩春だったと記憶するが、札幌のヤマトファンたちに会いたい、と突然連絡があったときのことは未だに昨日のことのように覚えている。会ったメンバーが四人だけ、全員いろんなファン団体のリーダーではあったが、かろうじて大学生だったのが一人だけで、残りの私含めた三人が浪人生という情けない身分だった。
それでもちゃんとホテルの会議室をとってくれていたのがさすが、という感じだった(ホテルが書いた案内看板に“『宇宙戦艦大和』ファン御一行様”、とあったのを何故か記憶している)。
「あいたかったよ」
という、岡田斗司夫の本に書いてある挨拶と握手は確かにされた!
「二千万振り込もう」
とは言われなかったが(笑)。
そのときはプロデューサーというよりは営業担当みたいな感じの人だな、と思ったものだが、やがてヤマトの劇場版が完成、その発表会で見かけたときは、別人のごときオーラを発していた。
人間、成功すると変わるものだと思ったものである。
あまりいい変わり方とは思えなかったものだけれど。

西崎義展、本名弘文。日本舞踊の西崎流の一族である。
あれは十数年前のこと、タクシーに乗ったら、その運転手さんが話し好きで、聞きもしないのに自分は西崎緑の夫だったと話してくれた。
かなりの高齢の人だったので、え、あのアイドルだった西崎緑の?と訊いたら、そうでなく戦後、西崎流の舞踊グループを率いて全国を回っていた先代の西崎緑だという。そのマネージャーを務めて日本中回っているうちに結婚して、夫兼マネージャーを長いこと務めたのだそうだ(後に浮気がバレて離婚)。
「じゃ、西崎義展って知ってます?」
と訊くと、
「ああ、弘文でしょう。あいつ、俺のカバン持ちで興業について回っていたんですよ。ところが、いく先々で踊り子に手ェつけやがってねえ。とうとう緑が怒って、俺がブン殴って東京に帰したんだ」
……もっとその話を聞きたいものだった。

思えば西崎氏は、そのマネージャー助手という出自、虫プロ商事の営業という出自から、対スポンサーの営業技術のスキルを磨き、ヤマトという商品を売り込むことに成功した人物だった。
地方で地道なオタク活動をしている浪人生たちに会いに来るバイタリティと、“こいつらが将来の商売の鍵になる”と踏んだ先見性。
機を見るに敏なその手腕は、劇場版『宇宙戦艦ヤマト』の、劇場用パンフを初版10万部印刷しろと配給の松竹に掛け合い、松竹がパンフなんてものは寅さんでも2万部しか売れないと拒否したのを恫喝的に談判し、結局4万部刷ったものが即日完売して追加印刷することになり、結果80万部近くの売り上げになった、というエピソードにもよく表れているだろう。
だが、ヒットを出して、営業をかけずとも自作に買い手が寄ってくるようになると、今度は企画力が問題になる。
彼の企画力は『さらば宇宙戦艦ヤマト』で尽き、その後は陳腐な特攻話を延々パターンを変えて繰り返すのみになった感があった。ドラッグに溺れたのは自分のかつてのカリスマを取り戻そうというあがきだったのだろうと思う。それから先はもう……ドラッグと銃刀法違反と権利裁判とだけがこの人の話題のような気がしていた。
それでも……真田役の青野武さんが主宰している芸協の公演を観にいったとき、そのパンフに青野さんが西崎プロデューサーのことを書いていた。やっと、という感じで『宇宙戦艦ヤマト復活篇』が公開された頃である。

http://www1.hinocatv.ne.jp/wildcats/yakusha19kara.html

「巨人未だ健在」
やはり、なんだかんだ言っても、西崎義展という人間の存在は不世出であった。
この原稿を書いた青野さんも直後に病気で倒れ、加療中である。
西崎氏ももういない。歳々年々人同じからず。

ご冥福を心からお祈りする。


西崎義展の死から、すでに5年が経過した。
その間に実写版『SPACEBATTLESHIP ヤマト』、『宇宙戦艦ヤマト2199』が作られて、旧『宇宙戦艦ヤマト』の時代は遠い過去のものとなった。

時は過ぎ去った。

ある種、タブーとも言えた西崎義展の全盛期の行状は、『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』でくわしく語られることともなり、戦後アニメ史を賑わせた人物として今後も語られ続け、しかし、忘れられていくだろう。






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