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2017/03/15

宇宙戦艦ヤマトの堕落史4|ヤマトよ永遠に

「ヤマトよ永遠に」は画がヒドい。もとい、好みに合わない絵柄なのでどうにも乗れない。しかも、「タイムボカン」と見まごうばかりのものすごく頭が悪い悪役が出てきて、壮大なバカなトリックを仕掛けてくる映画だった。
以上。

カネ儲けのために作られて、そこそこの興行成績を残した映画だった。
問題なのは、「ヤマトよ永遠に」は、合議制で作られたストーリーの弱点がモロに出ていたことだ。異なるアイデアをまとめきれず、破綻をきたしているからだ。
破綻の原因は、「ヤマト」において一番の決裁権を持っていた西崎義展にあったと考える。



「宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち」で登場した、古代守とスターシアの娘、サーシアは、上のような姿になって「ヤマトよ永遠に」に登場する。
「宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち」は西暦2201年の物語であり、「ヤマトよ永遠に」は西暦2203年の物語である。
イスカンダル人は1年間で17歳に成長し、それ以降は地球人と同様に成長するという設定を持ってきたので、こういう姿なのだ。

突っ込んだら負けだ。
わかってる。
1980年の時点で、ヤマトはこういう作品になってしまっていたのだ。

私たちは「機動戦士ガンダム」という巨大なインパクトに立ち会う一方で、かつてはSFファンにもてはやされた作品の悲しい変貌を目の当たりにするのだ。




「宇宙戦艦ヤマト2」「宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち」で、「さらば宇宙戦艦ヤマト」はなかったことにしたので、晴れて新しい映画を作ることとなった。
もちろん、カネ儲けのためである。

いや、「晴れて」はウソだな。
「さらば宇宙戦艦ヤマト」ではなく、「ヤマト2」が正史となった時点でファンが結構な数離れたような気がする。

「ヤマトよ永遠に」の作品世界では、ガトランティスの侵略から2年後、ヤマトと暗黒星団帝国とのファースト・コンタクトから1年経っている。
時に西暦2203年、暗黒星団帝国が地球に侵攻してくる。狙いは、地球人の若々しい肉体を奪うこと。高度に機械化し、生身の部分は頭だけになってしまった暗黒星団帝国の人類は、地球人の肉体を得ようとしているのである。
そこで、地球に重核子爆弾という兵器を持ち込んだ。
解説しよう。重核子爆弾とは、起爆するや、人類の脳細胞のみを破壊するという恐ろしい兵器なのだ。従って、この爆弾が起動すると、暗黒星団帝国は脳が破壊された地球人の肉体を大量に手に入れることができるのだ。
重核子爆弾の起爆装置は、地球と暗黒星団帝国の本星の双方にあって、両方を解除しなければならない。
ヤマトは起爆装置を解除するために40万光年彼方の暗黒星団帝国を目指す。
わずか2年前に往復29万6千光年をかけて命がけの旅をしたヤマトは、この映画では40万光年の彼方まで、数十日かそこいらで行くようになる。
ヤマトの波動エンジンがパワーアップしたので、連続ワープが可能になった。そういう設定を追加したのだ。

途中、金田伊功の作画が素晴らしい中間基地攻撃シーンを経て、ヤマトは黒色銀河にある敵の本星に到達した。
すると、その位置には地球があった。

暗黒星団帝国の聖総統は、ヤマトの乗組員をだますために偽の地球を作った。
「ヤマトをだますために地球を作る」というのも、突っ込んだら負けだろう。それほどの技術力・科学力があるというのに、それを種の救済に生かせないというのは、突っ込んでいけないのだろう。
労は多いものの、非常にムダな努力を費やした罠だ。
案の定、すぐに見破られてしまうのだった。
なぜ偽地球だとバレたか。
通信士・相原がロダンの「考える人」を見たところ、顎に当てている手が、本物と逆だと見破ったから。

で、ヤマトは偽の地球に波動砲を撃つ。
暗黒星団帝国の弱点は波動エネルギーで、その目覚ましい威力で黒色銀河までもが消失してしまうのである。どう考えても、その結果として夥しい数の星とそこにいる生命が滅びたように思えるが、映画では触れられていない。
黒色銀河も張子の虎で、生命などはいない虚構のものだったのだろうか。
そもそも銀河がみるみる消失するという世界は、リアリティからははるか遠いものだ。この世界での銀河は霧みたいなものらしい。
常識的に考えて数十億年の時間軸で起こることがわずか数分というのは、バカバカしくて反論を言う気にもなれやしない。

古代守は藤堂長官を逃がすために死ぬ。
サーシアは自己犠牲の精神を発揮して敵の本拠地で死ぬ。

これが「宇宙愛」である。

「ヤマト」世界では、死んで局面を打開する/ストーリーを進ませることが「宇宙愛」というものなので、主役の近くにいるキャラクターのうち、誰かが死んでいくことになっているのだ。
でないと物語は停滞する。

アイデアが散逸してて、しかもチグハグなのはお分かりかと思う。
松本零士のアイデアと思われるもの、豊田有恒が考えたと思われるSF的な設定、西崎義展が無理やりねじ込んだようなチンケなお涙ちょうだい作劇。

「宇宙戦艦ヤマト」シリーズは、西崎義展の強い意向が働いて、ストーリー作りは合議制である。スタッフによる長々としたブレストを行ってアイデアを集める。で、アイデアは合議の末にできたものであるということにする。そうすることで著作権を手元に置く。集めたアイデアをうまくまとめて脚本にまとめる、もしくは絵コンテに反映できる人材がいればいいのだけれども、そんな者はいなく、「ヤマト」はとっ散らかったアイデアを西崎義展の好きな自己犠牲、特攻の描写で無理やり収束を図るのだ。
ほれ、感動しろというわけさ。

1980年、富野由悠季はスタッフとともに「伝説巨神イデオン」を創っている。

私は、これに夢中になった。
それぞれが自分の母星を「地球」と呼ぶ、ロゴ・ダウの異星人とバッフ・クランの闘争、彼らの命運を握る<イデ>とは何なのかというすごいお話に遭遇したあとで、「タイムボカン」のドロンジョご一行とさして頭の中身が変わらないような異星人が登場する「ヤマトの宇宙」に戻るのはなかなかしんどかった。
「伝説巨神イデオン」と「ヤマトよ永遠に」の間には埋めがたい懸崖がある。いや、本格SFと1930年代のスペースオペラ風味の粗雑な活劇を同じ俎上に載せるべきではないのはわかってる。
「宇宙戦艦ヤマト」第1TVシリーズにあった「設定」「考証」への真摯な態度は失われてしまい、創り手の無教養と無節操とデウスエクスマキナとありがちなお涙頂戴ばかりが目立つシロモノになった映画。
「ヤマトよ永遠に」はすでに薄笑いのうえで遠ざけて見ない、そういうたぐいのものと見なされていた。

ま、そういう映画です。
たっぷり2時間30分。
ファン必見です。



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