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2016/03/06

白痴化する映画世界、見世物への回帰。

最近の映画は最初の数分で「掴み」の映像が出てくる。

さしてヒットもせず、何となく「なかったこと」になってしまったような『ターミネーター:新起動』でも「審判の日」が描かれ、核兵器による惨禍が描かれる。






『ターミネーター:新起動』で描かれる破滅的な「審判の日」は、
シネコンで見る映画は、「体験型」というか、遊園地のアトラクションと大差ないようなものが増えてきた。
3D映画が定着して、その傾向にいっそう拍車がかかったように感じる。
ものやひとが飛び出したように見える3D映画。
映像に合わせて椅子が揺れたり、水がぴゅっとかかったり、うっすら霧のようなものが出てきたりする4DXなどを充分に意識した映画。
そういった疑似的な体験ができる映画が続々と登場している。



飛び出る画、はでな画づくりの見せ場が連続し、それが3Dや4DXの効果と相まって興奮する。
当然、SFX/VFXの技術が向上した恩恵を反映した画づくりだ。
いままで見たこともないような位置にカメラを置いて撮影したかのような画、とんでもない数の群衆がうごめくモブシーン、空飛ぶ姿がリアリティに満ちたヒーローたち、彼らの常軌を逸した戦いぶり、細かく描写される多種多様な破壊や爆発や事故。

豪華な料理が次から次へと運ばれてくるかのようだ。

見終わって、視覚と聴覚を刺激するだけ刺激する内容に満足感は感じる。


だが。

お話の印象が薄いものが多い。
見終わって数日のうちに<あれ?どんな話だったっけか>などと首を傾げることも多い。




最近のハリウッド製造ブロックバスターは、飛び出る画、派手な画づくりの見せ場が連続し、それが3Dや4DXの効果と相まって興奮する。
アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』は冒頭でヒーローたちの入り乱れたアクションがあって、作品に引き込まれる。

SFX/VFXの技術が向上した恩恵が反映された画づくりは、必然的な流れだ。
いままで見たこともないような位置にカメラを置いて撮影したかのような画、とんでもない数の群衆がうごめくモブシーン、空飛ぶ姿がリアリティに満ちたヒーローたち、彼らの常軌を逸した戦いぶり、細かく描写される多種多様な破壊や爆発や事故。

豪華な料理が次から次へと運ばれてくるかのようだ。

見終わって、視覚と聴覚を刺激するだけ刺激する内容に満足感は感じる。
だが、視覚と聴覚が満足する映画、それだけでいいのだろうか。


ハリウッド映画界で不思議なことのひとつに、「途切れなく仕事が来ているローランド・エメリッヒ」というのがある。
このドイツ出身の男は、予算のかかった大作を途切れなく作り続けている。
作風はVFX/SFX使いまくりの派手なカタストロフの連続と、まったく深みのない人間描写である。
人物は、描かれるカタストロフを強調するための駒としてしか機能していない。
たとえば大規模な地殻変動によって地球が滅亡する『2012』では主人公とファミリーは地震でどんどん壊れていく道路も、噴火で裂け目の入った空港ももの ともせず、奇跡に次ぐ奇跡で生き伸びるが、ゲームの中のキャラクターが危機を乗り越えていくみたいな描写で感情を動かされることにはならない。
「ほら、スゲー画面でしょ!」と言いたいがために出てるようなものなのだ。
カタストロフの果て、世界の支配層がひそかに建造した船に乗ったごく一部の金持ちや知識人やらが生き残りました、めでたしめでたしというどうしようもない無力感に捕らわれる映画だった。
『デイ・アフター・トゥモロー』は世界が気象変動の末に寒冷化して凍るという画だけの映画。
『ゴジラ』はマグロが大好きな巨大なトカゲがすごいスピードでマンハッタンを走ってるだけの映画。
『インデペンデンス・デイ』は世界中に馬鹿でかいコーヒーの皿が出現したものの、AppleのPowerBookから送られたコンピューターウィルスにやられて次々と爆発してしまうという映画。
驚くなかれ、アップルコンピューターが世界を救うのだ。

ローランド・エメリッヒの映画は、まさにアトラクションというべきで、遊園地などにある「体験型映像」に少し毛が生えた類のものだ。
しかしながら、公開されると大ヒットしてプロデューサーを大喜びさせるのだ。

ローランド・エメリッヒはディザスター・ムービーの巨匠なのだという。
ディザスター・ムービーとは、自然災害や巨大な事故が巻き起こす惨禍を描く映画だ。
かつて日本では<パニック映画>と称されていた。
パニック映画では、恐ろしい災厄に負けることなく立ち向かっていく人々の姿に焦点が合っていた。
しかし、ローランド・エメリッヒのディザスター・ムービーは、災厄のすごさを見せようとするばかりであり、人の姿には興味を持っていない。人間とは災厄を際立たせる部品であり、物語を進めるうえで支障にならない言葉を吐くだけの木偶の坊でしかない。
人物が出てくるところは、やっつけ仕事である。
で、災厄や大規模な破壊ばかりが続くのも、実はさして面白くない。そういった場面ばかり見ていると感覚が麻痺してしまい、さして驚きもしなくなって、「ああよくできたCGだなあ」などと、スレた感想を抱くに至る。


 

映画のアトラクション化といえば、東映がカモから金を巻き上げることにひたすら腐心する『仮面ライダー』などはどうか。
<あれ?どんな 話だったっけか>という、すぐに内容を忘れてしまいそうな薄っぺらいやっつけ脚本をチープなビデオ画面改造(SFX/VFXではあるが、恐ろしくチープな のでそう言いたくない。テレビだろうが映画だろうがネット配信ドラマだろうが押しなべて派手なだけであって質が低い。)で作り続けている。
おいしくないし、材料も良くないラーメンに、大量に調味料を投入してごまかしている。SFX/VFXを調味料として使っている。

劇場で公開される『仮面ライダー』『スーパー戦隊シリーズ』や、作ったもののコケた『宇宙刑事ギャバン』『人造人間キカイダー』などは、<映画のフリをした映画ではないもの>であると思う。
かつて、学校の長期休暇期間や大型連休などのとき、デパートの屋上や遊園地の屋外スペースで行われていたヒーローの<着ぐるみショー>の代わりに全国一斉にスクリーンで公開し、客を集めて金をふんだくるイベントである。
映画の体裁をとってるが、<着ぐるみショー>なみの内容。テレビシリーズの片手間に作られるペナペナの映像ショーだ。
まあ、<着ぐるみショー>だと思えば腹も立たない。<着ぐるみショー>には<着ぐるみショー>のファンもいるってことだろう。


はたして映画とは、<おはなし>を楽しむべきものなのか、それとも画を楽しむべきものなのか。 とりわけ大きな画面といい音響で得られる体験を重視するべきものなんだろうか。
確かに、体験としての映画は楽しい。

だけど、人物の演技や、ストーリーも堪能したい。
そういうひとは、映画ではなく、テレビドラマに手を伸ばしたほうがいいのかもしれない。

いまどきのハリウッド映画の大作は、アトラクション化している。
しかも、お客さんをたくさん呼び込みたいので、残酷な描写や暴力的な描写を排除するというものが多くなり、表現の制限が多くなってきた。
ゲテモノやエグい映画が出てこなくなってきた。

その一方で、アメリカの有料ケーブルテレビやネット配信用のドラマは、有料ということもあり、表現の規制がとてもゆるい。
結果として、映画では描かなくなったゲテモノやエグい表現が見られる作品がドンドン出てきている。
さらに、映画畑の人材がどんどんテレビドラマに参入して、映画で描けないような表現に取り組んでいるのだ。
たとえば『シックス・センス』のM・ナイト・シャマランは『ウェイワード・パインズ』を手がけ、映画ではできないお話をやってフラストレーションを解消し、商業的にも大きな成功も手にしている。
ある男が謎に満ちた街「ウェイワード・パインズ」から逃げようとする物語だ。
ウェイワード・パインズの住人たちには奇妙なルールがある。「街の外に出ない」、「過去については語らない」、「電話が鳴ったら必ず応答する」と言ったものだ。
彼らは過去の記憶自体も曖昧だ。
街には出口が見つからない。
外部との連絡も取れず、街の外に出ようと車を走らせたとしても、なぜか同じ場所に戻ってきてしまう。
デッヴィド・フィンチャーは『ハウス・オブ・カーズ』で大成功している。
ケヴィン・スペイシーが悪い大統領をやってる。
そのほかにも、マーチン・スコセッシ、マイケル・ベイ、リドリー・スコット、ウォシャウスキー姉弟など、そうそうたる顔ぶれがテレビドラマに関わっている。

アメリカのテレビドラマは、尺はたっぷりあって、予算は潤沢、映像表現は映画と遜色のないものになってきている。



 

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