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2015/09/09

西崎義展と宇宙戦艦ヤマト Part2

西崎義展はアニメ業界に大きなインパクトを与えた人物だった。




何よりも、アニメ=まんが映画もしくはテレビ紙芝居という図式を壊してみせた。

そして、アニメのビジネスとしての大きな可能性を見出した人物である。
アニメに鉱脈を発見して、巨額のカネを掴んだ成功者だった。
子供に対しておもちゃを売りつけるという従来のビジネスをとらないで、全く違う市場を作った。
ティーンエイジャー、若者、さらにはその上の世代を映画館に足を運ばせたのち、書籍、レコード、キャラクター商品などの購入を促すという手法を確立した。
高額な「設定資料集」「豪華本」などがずいぶん売れたと記憶する。可処分所得の多い層=ファンが多く集まった。
それを意図的にしたのか、結果としてそうなったのかはわからない。
また、「宇宙戦艦ヤマトファンクラブ」を創立してファンの囲い込みをしたというのも特筆すべきだ。ファンのロイヤリティ(忠誠度)を高めるという点で効果的だった。

西崎義展は、アニメ業界を変えた人物と言える。
それでは、アニメ制作者/プロデューサーとしては、そういう仕事ができるのか。どのように評価されているのか?

西崎氏が途中ですっかり デスラーにのめり込んじゃいまして、
どんどんデスラーになっていった。


安彦良和の語る西崎義展

西崎さんで人は金に糸目はつけねえって人でしたから、コンテでも「おいロングを使え。やれ」って言うんですね。それだと金がかかるけどいいのかなあと思いながらコンテを切ってました。だからあんなハリネズミみたいな「ヤマトの絵がたくさん出るわけです。「ガンダム」ではそんな手間のかかることはできない。 それが当然なんですけど。
「ヤマト」は映画もやってオリジナルビデオもやっていろいろあったけど、 その中でいつしか滅茶苦茶になっていったんですよ。西崎氏が途中ですっかり デスラーにのめり込んじゃいまして、どんどんデスラーになっていった。続編を つくるたびに「これはデスラーの話だ」と言って、実際にデスラーが主役の話もつくった。ひどいことに自分で自分がつくった話の世界にのみ込まれてしまったんでしょうね。「ヤマト」もガミラスやデスラーという魅力的な仇役を創出したのが大きな成功の要素だったんですけど、西崎氏にとっても魅力があり過ぎた。難しいものですよ。
彼は人をとっつかまえたら離さないところがあって、僕は途中で、もう「ガンダム」と同時に「ヤマト」までやってられないってのもあって、抜けたくて抜けたくて仕方がなかったんですけど、抜けられなかった。最後にはもう相当シリアスなケンカでもしない限り抜けられないと思って、シリアスなケンカをして抜けました。

西崎義展と仕事する困難さが伝わってくる。
超ワンマンの会社で働く辛さとでも言おうか。

今回のエントリーでは、アニメ業界で働く人と西崎義展の関わりを、ネット上に残された発言やインタビューから探ってみる。




 だって我侭だもの‥。何も人に任せない。
だから現場はその分“監督不在”‥。


野崎欣宏が語る西崎義展

野崎 ヤマトの場合は、これはまた別で、プロデューサーがワンマンですから‥。ちょっと人並み外れたワンマンだからさ。すごいファイトはもっていたけどすごい環境でしたからね‥。
高橋 僕はよく知らないんですが、西崎さんの周りにブレーンのような人がいらしたじゃないですか。
野崎 尽くす人がいないんですよ。
   “サンライズの為にずっと考えて企画して”なんていうタイプの人が、西崎プロデューサーの周りにはまず居ないもの。僕20年ずっと周りでやってて、食わせてもらってるけどさ。まず、そういう人がいない。お金がある時にはみんな寄ってくるけど作品を育てようという人は・・・・。
高橋 ある意味では西崎さんて優秀な人じゃないですか。優秀過ぎるぐらい優秀じゃないですか。その優秀すぎるぐらいというものが逆に・・・・。
野崎 西崎プロデューサーは異質ですね。
高橋 西崎さんはある意味“異質だ”と・・・・。
野崎 だけど、別な意味分かり易いわけですよ。1人偉い人がいるっていうのはですね。   サンライズは偉いっていう人が目立たないんですよね。
高橋 サンライズの場合は個人プレーというのがあんまり目立たないですよね」
野崎 ただね、西崎さんのやり方というのはアニメの生粋のやり方でいった人は反発しちゃうよ。だって我侭だもの‥。何も人に任せない。だから現場はその分“監督不在”‥。ラッシュ試写に誰も来ないんだから‥。いや、本当だよ。未だかつてあそこでラッシュ見に来た監督って1人もいないよ。全部、色指定でも何でも西崎さんのところへ持って行かないといけない。ああだこうだ弄くり回すじゃない。だからフィルムの制作時間が無くなっちゃったんですよ」
高橋 ・・・・。
野崎 それで現場の時間が全くないの。僕たちが“作画の時間がないですよ”って言ったってダメ。外部の監督とかシナリオライターとかそういうの大事にするからね。段取りばっかするんだよ。会議が多いんですよ。“会議でフィルムは出来ない”って何回も言ったんだけどさ。

サンライズ公式ウェブサイト特設ページ『アトムの遺伝子 ガンダムの夢』野崎欣宏・高橋良輔対談より(『アトムの遺伝子 ガンダムの夢』は削除されていて読めない)

野崎欣宏は虫プロ、西崎義展の作ったアニメ制作会社であるオフィス・アカデミー、日本サンライズ(サンライズ)で仕事をしてきた人。
「ヤマト」では設定制作という肩書で仕事をしていた。
重大な指摘は、

1.西崎義展が制作に関するあらゆる決裁権を独占している。
  「監督」でさえ、職権がないも同然である。

2.会議に多くの時間を費やす。結果として、作画の時間がなくなる。

このふたつである。
西崎義展が会議に時間を割くことについては、次のような証言がある。

結局、新作ヤマトの話は受けなった。今考えると、あの頃はアニメ班が袋小路に入り込んでいた時期なので、新作ヤマトをやっても良かったんじゃないかと思うのだが、その時はやりたいことをやらせて貰えないであろうことが嫌だった。
また、作品の為に実際に作業をしたり、色々とアイディアを出したりしたとしても、西崎義展の仲間や友人にえげつない方法で名前や権利をとられることが後にわかった。つまり、西崎義展は自分一人の力で大プロデューサーになったわけではないので、古くからの仲間や友人に現在でも利益を配分する必要があるのだ。
この「えげつない方法」を教えてくれたのが、誰あろう松本零士。
例えば「ヤマト」のタイトル片仮名表記とか、第三艦橋とか、何か新しいアイディアを思いついたとする。西崎義展はそれを参加者数十人の会議にかけさせる。そこで細かい駄目出しや、修正・変更を加える。この過程で、この新しいアイディアを、個人ではなく皆が考えたことにする。権利を個人からとりあげ、皆のものにするわけだ。

(岡田斗司夫『遺言』)




現場ではプロデューサーが首を縦に振らなければ何も進行せず、偉い人たちは会議をして、施策に充てる時間をどんどん圧迫していく。
こういう現場なのだが、スタッフはいた。
野崎欣宏の発言を踏まえて、元日本アニメーションプロデューサー・佐藤昭司の発言を見てみる。

数千万円の赤字を作ってしまった彼は、
「もうアニメーターは信用しない」と、ぼやいておりました。


「赤毛のアン」がテレビアニメになった日
佐藤昭司(元日本アニメーションプロデューサー)

アニメ創作に情熱を燃やした、ある新進のプロデューサーが、その熱意のあまり自分のスタジオを設け、スタッフを高級優遇して、作品づくりに乗り出したことがありました。
それまで制作には門外漢だった彼でしたが、身銭をはたき、余所よりは多くギャラを出して、スタッフと寝食を共にするようにして、テレビアニメを作ったのです。
と ころが素人の悲しさ、専門用語がわからないために、説明すればするほど、現場のアニメーターは混乱するばかり。手順を無視した注文に彼のあくの強い性格も 手伝って、すっかり敬遠されてしまい、高額のギャラと仕事を天秤に計って、ギャラの方に傾いたスタッフだけが残る結果となりました。

結局テレビの方も失敗に終わり、数千万円の赤字を作ってしまった彼は、「もうアニメーターは信用しない」と、ぼやいておりました。

その後、持ち前の才能を発揮して、アニメで大当たりを取った彼は、それでも二度とアニメーターを信用しようとはしなかったそうです。
「彼 は札束で人をひっぱたいて仕事をさせる」「でも金がほしいから、一年ばかり我慢して行ってくる」と、いまだにアニメーターの間で、アニメ作りと無縁な低次 元な話題になっています。しかし、一番孤独なのは彼の心ではないでしょうか。しかしその孤独に耐えられることこそ、男性型社会の人間の特質なのです。

 野崎欣宏の発言と佐藤昭司の発言から明らかになるのは、カネのために仕事を引き受けて西崎義展のワガママに従って作品を作り、しかも制作の時間が不足しているという状況下で作品を作り上げたスタッフたちがいたということだ。
そのことで、スタッフを責める気はない。カネは仕事をする上で、最も大きな動機だし、誰だってメシのために働くのだ。

問題は、プロデューサーとしてのスタンスだ。
スタッフがいるにもかかわらず、「何も人に任せない」で、何事にも権限を振るう。
そのプロデューサーが映画制作全般にわたって秀でた知識とセンスを持っていたとしたら問題はないかもしれない。
しかし、問題はあった。
それは作品を見れば明白で、『さらば宇宙戦艦ヤマト』の成功体験に拘泥し、自分の好むような方向しか認めず、同工異曲の陳腐な物語を繰り返してしまった。
権利確保のために会議に時間を割いて、作画などの制作に充てるべき時間を取らなかった。結果、アニメとしてのクオリティに破綻があった。『さらば宇宙戦艦ヤマト』以下、『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』に到るまで毎度作画のレベルの低いシーンを見せられた。

西崎義展が制作したアニメでクレジットされている主だったスタッフは、何の権限もなかったという。スタッフの個性が発露される場面はあまりなかった。
例外としては『ヤマトよ永遠に』の金田伊功作画パートくらい。
作画や演出は個性的ではなかったけれども、それは圧倒的権限のプロデューサーの圧力ゆえだった。
作品のクレジットを追うと、有能なスタッフは去っていったのがわかる。


前田真宏と西崎義展の関わりについて記したい。

前田真宏は大学在学時に漫画研究会に所属し、そこで先輩の貞本義行と出会う。大阪で行われたSF大会で『DAICON IV』のOPに原画として最後の群集場面に携わる。

『風の谷のナウシカ』で庵野秀明と共に原画を担当したことがきっかけで、二馬力と交流を持ち、スタジオジブリ作品(『天空の城ラピュタ』)の制作には先に参加していた『王立宇宙軍 オネアミスの翼』 の現場を休んで参加するほど入れ込んでいた。ラピュタでは劇中終盤のラピュタ崩壊場面を担当しているが、この場面には一緒に落下するムスカが描かれている。もちろん前田が描いているのだが、これは前田の遊びではなく、事前に宮崎駿がコンテで指定したものである。その後ガイナックスにも所属していたが、方向性の違いにより、1992年、村濱章司・樋口真嗣・山口宏らと共にアニメーションスタジオゴンゾを設立する。

『マッドマックス 怒りのデス・ロード』では監督の長年の希望によりデザイナーとして参加している。
前田真宏は『YAMATO2520』で、西崎義展の干渉の前に疲弊した。

この作品の全権はプロデューサーにあり、
現場スタッフが面会を拒否する理由は残念ながらなかった。


GONZO村濱章司の語る西崎義展

GONZ0の名前が売れてきた頃、ビッグプロジェクトの話が舞いこんできた。
名は明かせないがある大作のOVA制作である(YAMATO2520)。
いまさら語るまでもない不朽の名作の最新作だ。

プロデューサーは、その作品を世界的名作にした立役者でもあるが、よくも悪くも噂の絶えない業界内外で有名な人物でもある。当時、彼が続編をつくるという話は聞いていたけれど、私としては特に興味のある話ではなかった。しかし前田(真宏)さんが、ある人からの頼みで監督を引き受けることになってしまったのだ。

それ以前に何人も監督が決まっては辞めてゆく状態にあったのを聞いていたので正直、私は関わりたくない仕事だった。だが前田さんには、人間関係的に断れない事情もあったらしく、重い腰をあけざるをえない。「彼は現場には口を出さない」「制作は若い人たちのアイディアでやればいい」という事前の口約束もあったので、渋々ながらも制作を引き受けたのだ。
シナリオやスタッフ陣容も決まり、さあ制作に入ろうというとき、やはり、プロデューサーは私たちと話したいと言いだした。この作品の全権はプロデューサーにあり、現場スタッフが面会を拒否する理由は残念ながらなかった。いざ会ってみると、やはり彼は私たちのプランをすべて引っ繰り返してきた。あれは違う、これも違うから始まり、しまいには音響監督も編集も自分がやるといい始める。これはかなわんなと思いながら、私は何とかうまくなだめて、制作を進めようとした。
前田さんは、彼の口槍攻勢によく辛抱してくれたと思う。しかし限界はある。
彼は予告なく現場に現れては、その場の思いつき見たいなことをボンボン言いだして、現場をひっかき回してくれた。
前田さんに仕事以外の疲労が潜まってゆくのが、目に見えてわかった。
この仕事にはある人が、(西崎)プロデューサーとの間に入っている。仮にAさんとしよう。
実質的なGONZOへの指示なり入金は、このAさんから行われていた。

その頃、GONZOは新井薬師のマンションに移っていた。家賃は20万ぐらいだったと思う。
コピー機のリースや光熱費で、日にかかる経費が25万ぐらい。最低、毎月50万ぐらいの入金があれば会社を回せる経営状況だった それはAさんに伝えていて、今回のプロジェクトではマネージメント料プラス村濱の制作担当費として月50万円が払われていた。
そして、1巻の制作を開始して間もない頃、通帳記入をしてみると、入金が突然15万円になっていた。私はそのとき、ああ始まったなあ……と感じた。気配は感じていた。
予想どおり何度督促しても、Aさんは要領をえない返事を繰り返すばかりで、残りの35万円を支払う素振りさえない。このの当時、GONZOは前田さんが監督することもあって、この作品にかなりの仕事量を段入していたので、支払いを減らされるのは即、経営危機につながる恐れがあった。
しつこくそう主張してもAさんはヘラヘラしているだけで、プロデューサーは相変わらず現場で暴威をふるっていた。たぶん.Aさんは、私のような若造は何のかんの言っても、月15万で働くと思っていたのだろう。
入金がきちんとされていないことが発覚した次の日。私は、プツリと現場に行かなくなった。
GONZOを守るためには、私がこの作品に関わる時間はここまでだと踏ん切ったのだ。
Aさんには電話で「私はこの作品から降ります」と伝えた。すると次の日に、朝6時くらいにプロデューサーから電話があった「かなり腹が立っていたので、電話に出ないで伝言を録音されるのを聞きながら無視していたが、ワケのわからないことをゴニョゴニョと言っている:「話し合う余地はある」とか「大人になれ」とか、微妙に私が悪いみたいを言い回しだったのが、よけいにイラついた。

今度は、「ヤマト」以降に西崎義展と関わりを持った人の述懐を読んでみる。
西崎義展がプロデュースし、ヒットしたアニメ『超神伝説うろつき童子』の原作者・前田俊夫である。

こいつの事を思い出すたびにムカつきます。


投稿者:前田俊夫 02/08/09 Fri 19:46:15

一般に原作者と雑誌社が製品価格の2から3パーセントを半分ずつ割ります。そのうえどこかのエージェントが入ってきたらこれはもう・・目も当てられない悲惨さ。僕は雑誌社には1銭も渡しませんが(特例です)

うろつき童子は最初の3部で終える予定でしたから、それ以上観る必要はないかもしれません・・ま・・その次の3本までは山木さんという敏腕プロデューサーが力をいれてくれましたからOKです。
この方は現フェニックスで『ジャイアントロボ』とかを作った天才肌の人です。

(いつも低予算で苦しんでいるのは同じですけれど・・)
その後は西崎某という「宇宙戦艦ヤマト」を作った詐欺師的ヤク中プロデューサー(こんな事書いてのいいのでしょうか?あの男は本物の銃で気に入らない人を脅すという、、本当の話を知っています)がオリジナルを勝手にいじりまくって僕の話を滅茶苦茶にしてくれました。会社でこの男と何度どなりあったでしょうか・・僕の作品を許可なく海外に売って何の報告もしない泥棒のようなやつでした。

うう・・こいつの事を思い出すたびにムカつきます。結局2000万円ほどやられてしまいました。街でみかけたら犬のフンでも食わせてやろうかと考えています。

ま・・アニメの原作だけでは生活していけないのが実態ですね・・

今回は西崎某の悪口に終始してしまいました・・反省しています。

投稿者:前田俊夫 02/08/10 Sat 15:40:53

「うろつき」の最初のシリーズの時、制作会社の社長が西崎だったのでプロデューサーの名前がそうなっていたかもしれませんが実質その下で働いていた山木さんが制作していたわけです。
結局この山木さんは西崎と喧嘩別れをするわけですが・・優秀な人間はどんどんやめていき、残ったのは???という人ばかりだったのでその後制作した作品がカスになってしまいました。
「うろつき」がヒットして大映のオファーがあり・・似たようなものをつくりたいからと「Iプロ」の方を連れて挨拶に来られたので承諾した結果・・・あの「妖獣教室」ができあがってしまたのです。
ただ、あの当時は今と違いアニメに多少予算が取れたのでまともなものをつくろうと考えれば可能だったんですが・・残念です。
現在、日本だけで予算を調達するのが非常に難しいので、僕の場合まず原作とイメージカットを描いた後アメリカの販売会社にその概要をエージェントを通じて持ちこみます。OKが出れば予算の30パーセントあたりをもらい制作に取り掛かれるわけです。最初に北米の販売権を売っておかなければ予算調達できないというのが僕のビデオ制作の現況です・・。
だからボツになった原作やイメージカットには1銭も出ない厳しさ・・常に新作を考えていなければなりません。

おしまい。

前田俊夫は西崎義展の振る舞いに心底怒りと嫌悪を覚えているようだ。
続いては、声をかけられたが関わりを持たなかった、首藤剛志の回想。

「人生ってはかないものだねえ」
挨拶も自己紹介もなかった。


 ☆首藤剛志の語る西崎義展

○僕としては、当時、色々話題になっていたN氏に興味があったので、とりあえず会ってみようと、六本木にあるN氏の会社に行った。 会社は、高いビルの2階分を占めていて、社員にN氏に連絡を取るからと事務所部分のエレベーターで、5分ぐらい待たされた。 やがて、了解が取れたと言う事で、1人でエレベーターに乗り、上に上がった。 エレベーターが開くと、そこは、いきなり会議室か社長室で、大きなテーブルが置いてあった。N氏以外、誰もいなかった。N氏は黒い服を着て1人で立ちすくんで、僕に対して振り向きもせず、窓の外に見える東京タワーを見つめていた。 そして、つぶやいた。 「人生ってはかないものだねえ」 挨拶も自己紹介もなかった。 そして、振り返るとテーブルに坐った。これでマントでもつけていたら、まるでデスラー総統のようだった。 「知人の葬式があってね。ほんとうに人生ははかない。……で、首藤君、今度のヤマトだが……どんな話かね」 N氏はいきなり本論である。 こっちは何も用意はしてない。 僕だって、相手の意向を聞く前から、ストーリーなど考えていない。 で、その場で思いつきを話した。
 「ヤマトの戦いが終わって80年後、宇宙は平和で、軍隊もなく、ヤマトは博物館の倉庫でホコリだらけになっている。倉庫番は、ヤマト活躍当時の少年兵で、90歳を過ぎても、昔のヤマトの栄光を忘れられない。
そんな時、宇宙から外敵が現れる。しかし、平和ぼけした民衆は、誰も闘いたくない。それでも戦わないわけにもいかないから、フリーターやごろつきや、世の中に退屈し切っている人間を金で雇ってとりあえずヤマトに乗せる。
 艦長は『いまこそヤマト復活の時!』と張り切っている90過ぎの倉庫番。
 実際に役に立つのは、ヤマトの過去の戦歴を記憶しているコンピュータ・カミカゼだけである。
 カミカゼの作ったマニュアルによる訓練で、無責任でやる気のない自分勝手な乗員達に結束感が生まれてくる。
 かくして、ヤマト出撃……。こんな宇宙戦艦ヤマトで、勝てるはずがないと思うが、宇宙からの外敵もいいかげん平和ぼけしていたから、猪突猛進のヤマトにびっくりして、逃げていく。ヤマトの活躍は、弛緩していた民衆の心に、平和ぼけでない活力をあたえる。
 このストーリーを、おふざけでなく、真面目に描けば、かなり面白くなると思います」
 N氏はじーっと僕を見つめ「首藤君は面白い事を考えるね」とつぶやいた。
 その後、20年近く、N氏から全く連絡はない。
 『ヤマト復活編』が作られているという噂も聞かない。
 だが、僕としては、その時の思いつきが、頭に残っていた。
 『ヤマト』そのものではなく、やる気のない自分勝手な乗員達のエピソードである。
 『機動戦艦ナデシコ』の企画設定を読んでいる内に、そんなエピソードのいくつかが浮かんできた。 

西崎義展の姿は芝居がかっているが、そういうことを照れることなくできる人だったようだ。
 首藤剛志は西崎義展と関係することもなく、2010年10月29日に死去した。西崎義展死去の3ヶ月後だ。


芝居がかった西崎義展の姿は、岡田斗司夫の著作にも書かれている。


 回り道をしましたが、西崎義展さんと『ヤマト』の話です。  西崎さんはこんな話が出来る相手じゃないんですよ。迫力が違う。初めて会ったとたん、「会いたかったよ」って握手するんです。
 聞いた途端に「会いたかったよ『ヤマト』の諸君」と続くんじゃないかと思いました。 「会いたかったよ」って言われても、僕と庵野はどうしていいか分かんないんですよね。困っていると、次の言葉が「口座番号を教えてくれたら、明日には二千万振り込もう」。  まず金ですよ!
 『宇宙戦艦ヤマト』の話を聞きに来ただけの僕たちに、「『ヤマト』の仕事を引き受けてくれ」とも、「『ヤマト』を一緒に作ろう」とも、「君は『ヤマト』が好きかね」とも言わないんですよ。
  金です。
 その金も、お金を払おうとか、いくらで仕事をやってくれじゃなくて、「口座番号を教えてくれ」から始まるんです。 「これは変な奴に会っちゃったなぁ」と思って庵野くんを見ると、もうクスクス笑いモードです。完全に楽しんでるんですよ。

 西崎さんには、実はやりたい『ヤマト』が既にあるんですよ。いっしょにやりたいスタッフも決まってるんです。好きに作っていいと言ってたけど、それを言葉どおりにとっちゃいけないんですね。 「アニメーションはね、庵野秀明君が思う通り作ってくれていい。俺のことはいいけど、いくら思い通りと言っても、『宇宙戦艦ヤマト』は色んな人が力を合わせて作ったもんだから、それまでの経緯をないがしてもらっちゃ困る。それは男としていかんだろう。老いた艦長と若い部下の継承の話を語ってもらいたい」って言うんです。  だったら昔の『宇宙戦艦ヤマト』そのままやってもいいはずなんですけども、それは駄目だと。
 「それでは庵野秀明が『宇宙戦艦ヤマト』をやるということにならないじゃないか。君は過去の亡霊に囚われていていいのかね。太平洋戦争で君は何を学んだんだ」
 学んでるわけないですよ!  
 本当にこうなんです。富野さんみたいに熱いって言うのではなくて、ずーっとなだめるみたいな感じの話し方で、特有のゆったりしたリズムでロマンを語る。
 で、ロマンの中に時々えげつない女の話とか、えげつない金の話とか、えげつない銀座の話とかがポロポロ入ってきて、アニメの途中にエロビデオのCMが入ってるみたいな違和感で、凄く不思議な人でしたね。  
 二時間くらい話しました。途中で西崎先生が凄く興奮したりすると、秘書の人が薬を持ってくるんですよ。なんか見たこともないような「薬」なんです。秘書が、理科室にあるような茶色の瓶をこう開けて、秤で量って、それを紙の上の載せて、その当時日本では珍しかったエビアンと一緒に差し出すんです。「先生、お薬の時間です」って。
 飲んでしばらくすると、顔色が赤でもない青でもない不思議な色になって、どんどん言ってることがおかしくなっていくんですよ。「もう君には二千万払ったじゃないか」とか。あの薬は何なんだったんだろう。

(岡田斗司夫『遺言』)

岡田斗司夫の、「西崎さんには、実はやりたい『ヤマト』が既にあるんですよ。いっしょにやりたいスタッフも決まってるんです。好きに作っていいと言ってたけど、それを言葉どおりにとっちゃいけないんですね」という指摘は、西崎義展の「ヤマト」に対する妄執を指している。

宮﨑駿との数々の仕事でもおなじみの天才アニメーター・大塚康生にも、西崎義展と仕事をする可能性があった。

催促されて仕方なくおずおずと右手を伸ばすと、
いきなり4本の指を撮りしめ「どうでしょう」


大塚康生の語る西崎義展

    ある日、真っ白なリンカーン・コンチネンタル・リムジンに白手袋のショファーを伴って、「宇宙戦艦ヤマト」のプロデューサーである西崎義展さんが、藤岡さんとの会談のために、床が傾いていて落とした鉛筆が転がるほど古い東京ムービーのビルを訪れました。私も前もって呼ばれていて同席させられました。それは想像を超えたシーンとしか言いようがありませんでした。まずお二人の身につけているブランドもののことから話がはじまりました。
    背広に触りながら、
「あ、これね、いや170万だったかな、安物ですよ。イギリスで仕立てたんですがね……」「僕のはイタリア製だったかなあ、200万ちょっと…・・」。

「どうぞ火を」と言って、西崎さんが私に差し出したライターは純金だそうで、「これ案外高かったかなあ……40……いや50だったか、なんならあなたに差し上げますよ」と私の手に握らせようとしながら本題に入りました。

    要するに抱え歩いている「宇宙戦艦ヤマト」の企画書をめくりながら、この企画のメカ作監(その言葉自体、私には初耳でしたが)をお願いしたい、というのが来訪の趣旨だったのです。
    むろん即座にお断りしました。「私がメカに強い、というのは単なる風聞です。機械の形や作動原理は好みの違いで専門化していて、私が多少でも知っているのはトラックや自動車のごく一部にすぎません。眼鏡違いです」と言って立とうとした私に、西崎さんは「お手を拝借」と言いながらテーブルの下に手を差し入れ、こコニコと笑っています。
    催促されて仕方なくおずおずと右手を伸ばすと、いきなり4本の指を撮りしめ「どうでしょう」。
    びっくりして「なんですか、放してください」と言うと、今度は4本の上に親指を引き寄せて重ね、「これでどうですか」と得意気でした。私はその握りしめられた手の生暖かさと見つめられる目の気味悪さに思わず手を振りほどいて「金じゃないですよ」と言って飛び出しました。私が西崎さんにお会いしたのはこの一度だけでしたが、なんだか大山椒魚に触ったような気分でした。

大塚康生さんにもコンタクトしたということに驚いた。
アニメの業界とは言え、まったく生態圏が違っているので接点がないと思っていた。

まず可能性のあるお話ではないものの、大塚康生がメカを手がけた『宇宙戦艦ヤマト』は見てみたい気はする。その場合、宮﨑駿が演出で、当然のことだが、全面的にストーリーは改変されるんだろう。

西崎義展は大塚康生と仕事をしてきた宮﨑駿にもアプローチしたのかどうか、気になる。




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