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2018/09/08

必読の映画プレゼンテーション漫画「邦画プレゼン女子高生 邦キチ! 映子さん」

服部昇大「邦画プレゼン女子高生 邦キチ! 映子さん」は、日本映画および一部の外国映画について書かれたたいへん面白い漫画である。

邦画好きの女子高生・邦キチこと邦吉映子が「映画について語る若人の部」なるクラブ活動に参加して、ハリウッド映画が好きな部長相手に邦画をプレゼンする。

邦キチは、陽の当たらない日本映画について熱く語る。

いや、「陽の当たらない日本映画」などという言い方は穏当にすぎるものであって、実際は「誰がこんな映画を見るんだ」というような日本映画が取り上げられている。
様々な理由から地雷が多数埋まった映画を、邦キチはものすごい熱量と明るい笑顔でもってプレゼンするのである。
邦キチは、一般的な映画ファンからは大いにズレている。
ごく一般的な映画ファンとは、マスメディアやソーシャルメディアで大勢の人が騒いでる映画、主としてハリウッドのブロックバスターたまに邦画の大量の先っ伝を投入した話題作を友だちと観に行くというような人々だが、邦キチはそんなものに目もくれない。
ひっそり公開された日本映画、興業的には失敗してしまった作品、レンタルビデオ店でも目立たないような映画を熱を持って語るのだ。
ときに、世間からさんざん酷評を浴びせられた映画も俎上に上げる。
取り上げられている映画を挙げておく。

『魔女の宅急便(実写版)』
『DOG×POLICE 純白の絆』
『電人ザボーガー』
『ゲゲゲの鬼太郎・千年呪い歌』
『箱入り息子の恋』
『バーフバリ』(インド映画)
『貞子3D』
『哭声/コクソン』(韓国映画)
『劇場版仮面ライダーオーズ WONDERFUL 将軍と21のコアメダル』
『テラフォーマーズ』
『クリーピー・偽りの隣人』
『CASSHERN』
『KING OF PRISM -PRIDE the HERO-』
『ドラゴンボール EVOLUTION』(アメリカ映画)
『デビルマン』

この絵柄のチョイス。ひねくれた漫画ファンのハートを刺激するでは素晴らしいチョイスではないか。邦キチは、どうも陸奥A子先生タッチのようだ。
70~80年代の少女漫画タッチを使っていて可愛らしいタッチでありながら、描かれているのは〈熱〉である。
が、邦キチの日本映画への愛と熱情は、わたしたちの映画鑑賞のあり方を根底から揺さぶるのである。

映画が好きで、よく映画館に足を運ぶという人の大半はハリウッド映画が好きで、ハリウッド映画について語ったりブログやSNSに感想などを書いたりしている。
宣伝にほだされている人たちである。
中華圏映画や韓国映画、インド映画は公開規模が小さくて宣伝費も少ないから注目なんぞしない。
一部の好き者しか行かない。
日本映画については、大作・話題作についてのみ見に行く人がほとんどだろう。
TV局が作った映画、話題の漫画の実写化、ときにSNSを通じて評判が広まった低予算映画など、世間的に話題になったものについてはマスメディアで火がつくと観に行く。

日本では日本映画について語る人が多くない。
アメリカの映画について語る人の多さに比べて、日本映画を語る人はものすごく少ないように感じる。映画ファンを自称する人のなかで、日本映画が好きだという人は少ない。
日本映画は語られないものだし、多くの場合は侮蔑して唾棄すべき対象である。
語っている人がいるかと思えば、大抵の場合はやれ質が低いやれ演技がだめだ脚本がカスだ予算がない役者がいないプロデューサーもカントクも馬鹿だなどという悪口の羅列だったりする。
日本映画について語る人の多くは、暗くてネガティブな意見ばかり口にする。
〈鼻で笑う〉人のなんと多いことか。

「邦画プレゼン女子高生 邦キチ! 映子さん」は、映画をプレゼンテーションする漫画だ。
邦キチは、「日本映画にはこんな楽しみ方もありますよ」と笑いを交えて教えてくれるのだ。
映画を見るのにカネも時間も費やしているのだ、どんな映画だって何らかの楽しみを見い出せばいいのだ。

そう思える読後感だ。
爽やかである。




服部昇大は日本語ラップに造詣が深い人としても有名で、ライムスター宇多丸に強い影響を受けている。
このマンガは宇多丸の「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」初期の映画評論コーナー「シネマハスラー」が着想のヒントになったと推測する。
「シネマハスラー」は邦画を取り上げて、宇多丸が緻密に批評するのが売りだった。
その結果、映画の瑕疵があからさまになって、それをあげつらう宇多丸の文言は、批評芸というか笑いとして成立していた。
服部昇大は、熱心なリスナーだったので、宇多丸の批評を滋養にして「邦画プレゼン女子高生 邦キチ! 映子さん」を生み出したと推測する。
「映画の当たり屋稼業」と称してモンダイある日本映画を切りまくっていた宇多丸の遺伝子を受け継いだ漫画だと思っている。


2018/08/16

大藪春彦『餓狼の弾痕』のかつてない読書体験。



『餓狼の弾痕』は、大藪春彦晩年の小説である。
読んでみた。

これくらい衝撃的な作品もない。
ページを繰りながら、脳がしびれてくる。

この作品の粗筋を記す。

金銭強奪組織「オペレーション・ヴァルチャー」がある。
組織の強奪実行部隊を描く小説である。

1・強奪実行部隊が、悪徳金満家の家に忍び込む。

2・護衛たちを射殺する。

3・悪徳金満家から金を奪う。

4・見せしめに愛人を爆殺する。

5・悪徳金満家から次の獲物を聞き出す。

6・悪徳金満家の家から脱出する。

小説の冒頭から最後まで1~6を繰り返す。

文章もほとんど同じで、金品を奪われる悪人と爆殺される対象が変わるだけなのだ。






事象が繰り返されるというセカイ。
〈ループもの〉という

読み進むうちに目眩にも似た感覚にとらわれ、あやうくトリップしかけるというドラッグのような小説である。私は大薮の晩年の作品をほとんど読んでいないが、多くの作品が表現の「繰り返し」だったらしい。
検証しようと思ったが、大薮ノヴェルスは古本ですらも入手が難しくなりつつあり、電子書籍化されているものも少ない。



ワープロやパソコンを使って執筆する作家ならば、コピー&ペーストで容易に書けるものだろうが、はたして大薮春彦はキーボードを叩いて書く作家だっただろうか。

晩年、大薮春彦は病を得ていたともいわれる。
一説には、アフリカやモンゴルでの狩猟のさいに、ウイルスに感染してそれが後に脳を侵したともいう。
侵された脳はその働きがおかしくなって、大藪春彦じしんは描写がリフレインしていることにも気がついていなかったという説もある。

しかし、だからと言って大薮春彦という希代の作家の偉大さがいささかでも損なわれるものではない。

大薮春彦は、「野獣死すべし」を書いたという一点で偉大である。





そして、長年にわたって本屋の棚を占拠してきた圧倒的なボリュームの作品群を生み出した旺盛な創作意欲には目を見張る。
読みはじめたら止まらず、「大薮中毒」の症状を呈して、次から次へと、未読の作品を漁ることになる。
硬質な文体を用い、圧倒的な暴力描写によって描き出される人間の恐るべき業。
時には小説のバランスを崩して書かれるメカニズムや武器の細密な描写。さらには主人公のトレーニングや食事の場面にも息をのむ。
伊達邦彦や西城秀夫、鷹見徹夫・・・大薮アンチヒーローにどれだけ励まされたことであろうか。

大薮春彦は、それ自体が「大薮ノヴェルス」というジャンルだった。

膨大な数の亜流を産みだしたものの、誰も大薮を凌駕することなしえず、「大薮の前に大薮なし、大薮の後に大薮なし」(平井和正)と形容される、日本の文学界に孤絶して屹立する巨峰だった。
平井和正は「野獣死すべし」を読んで衝撃を受け、純文学志向を捨ててエンタテインメント小説を志向するようになった。
「ウルフガイ」「アダルト・ウルフガイ」「死霊狩り」などの平井の初期から中期の小説には大藪春彦の圧倒的と言っていい影響が色濃く出ている。
亜流は多数登場したが、大薮ノヴェルスの一部を剽窃して希釈したような小説ばかり。

かつて、大藪春彦の全盛期には、ほぼ読書はしないが大藪春彦だけは読むだとか、小難しい本ばかり読んでいると思われる人が大薮ノヴェルスを大量保有していたとか、そういうふうに思ってっだってない形で分厚く支持されていた作家だ。

いま、本屋に足を運ぶと新刊として手に入る大薮作品の数の少なさに悲しくなる。若い本の読み手は大薮を「体験」する機会が限られるのだから。

ここから書くことは妄想である。

大薮春彦は人間の業、人間がつくり出す底なしの地獄の様を描き出してきた。
もしかしたら大薮は無意識のうちに「悪魔」を召喚して、その力を得ていたのではないか。そしてその代償として人間としてのちからを奪われたのではないか・・・
そんな事を思ってしまうのだ。







2018/04/30

長時間映画はトイレ休憩をいれたほうが良くないか?

とんでもない予算を投入した特撮ヒーロー大集合映画『アベンジャーズ インフィニティ・ウォー』は前後編の前編で150分。エンドクレジットタイトルは10分を超える。

『スター・ウォーズ最期のジェダイ』は152分。
『ブレードランナー2049』は147分。
『ダークナイト・ライジング』、『トランスフォーマーズ・ロストエイジ』が165分。
『インターステラー』169分。

上記のような上映時間が長い映画を鑑賞する場合には、尿意を起こさないようにする準備が必要になるのだ。
映画を観る数時間前から水分の摂取を控えておかなければならない。
でないと、映画鑑賞中は尿意と対峙せざるを得ない。排尿を我慢すると映画に集中できなくなり、ついにはクライマックスで中座してトイレに駆け込むことになる。そのとき、我慢の限界を読み違えると下着はおろかズボンまで濡らしてしまいかねない。
映画鑑賞中にトイレに行こうとして席を立って眼前を通っていく人がうっとうしい。トイレ帰りにも鑑賞を邪魔されるというのもいやだ。
トイレで中座する人は、映画の長さに関係なくいるが、本当に鬱陶しい。

長尺な映画の場合、睡魔との戦いという問題もよく起こる。
寝てしまって肝心な部分を見逃す。
ほかの寝ている観客が耳障りなくらい大きないびきをかき、それが気になると映画の内容が頭に入ってこない。
勇気を奮っていびきをかいている人を起こしてみたら怒り出して喧嘩になって他の観客から出てけと罵声を浴びせられてついには映画館の人が出てきてご両人ともお引取りくださいとなって映画の代金が無駄になってしまう。警察を呼ばれて連行される事態もありうるのではあるまいか。

映画館/シネコンによるが、椅子が良くないと腰や臀部が痛くなってきて、これもまた映画に対する集中力を著しく低下させる。
上映時間の長い映画は身体の健康状態を推し量る指標になりうると言える。

映画が老人主体の娯楽になりつつある今、映画がどんどん長くなるというのはつらい話だ。上映時間が90分を超える映画は、一律にトイレ休憩を入れたいいのではないか。
尿意でシネコンでの映画館鑑賞を諦めていた人には朗報になる。

長時間映画はシネコンで観るのはあきらめて、自宅で鑑賞のほうがいいかもしれない。トイレで中座しようが、途中で寝ようが問題ない。


長時間映画のオススメは『ブレードランナー2049』。
この映画の特筆すべきは、映画の中で行われるイベントの少なさ。
『アベンジャーズ』シリーズとかマイケル・ベイとかローランド・エメリッヒの映画などは派手なイベントが波状攻撃を仕掛けてくる騒々しいものばかり。
『ブレードランナー2049』は、〈静謐さ〉を堪能できる稀有な作品だと言える。

美しく静謐な映画で時を忘れていつの間にか夢のなか。





2018/03/08

Netflixは平井和正の傑作『死霊狩り』をアニメ化せよ。

平井和正の『死霊狩り(ゾンビー・ハンター)』はNetflixかAmazonビデオでアニメ化したらいんじゃないかと思う。




世界では局地的な戦争や内戦が続いていた。世界には憎しみが充満していた。
東西の陣営は軍拡競争に奔走し、人類は、世界滅亡の危機にさらされているのだ。
そして、人類にはもう一つの深刻な〈見えない危機〉が迫っていた。
宇宙から未知の生命体が侵入してきた。そいつらは、寄生生命体で、人間に憑依し、たちまち狂暴な怪物に変えてしまうのだ。
この恐るべきエイリアンに対抗すべく、世界中から過酷な選別テストを経て選ばれたキリングマシーンたちで結成された超国家的秘密機関、それが〈ゾンビーハンター〉だ。

恋人も生活もゾンビーに奪われ、憎悪に身を焦がす主人公、田村俊夫。
物語は、田村を見舞う過酷な運命を容赦なく描いている。
中東出身の女戦士・ライラ、そして物語のカギを握る謎の多い中国人・林石隆。
ゾンビーハンターたちが実にいい。
そして謎の司令官〈S〉も正義の側にいるはずなのに、おそろしい相貌を持っている。

平井和正の人物描写と文体はじつに魅力的。
情念を濃密で、飽きさせない文体で書いている。
読み終わるのが惜しい。

〈ゾンビーハンター〉になるための過酷かつ暴力的なサバイバルテストの描写。
ゾンビーハンダーが使う銃火器の描写も、暴力描写も大藪春彦の小説に酷似している。
ある時期までの平井和正の小説は大藪春彦の圧倒的な影響の下で書かれていた。
この作品は初期『ウルフガイ』シリーズとともにその影響がはっきりと出ている。
しかし、人物描写で、平井和正は魅力を放っていて、単なる模倣者で終わってしまった暴力小説の作家たちとは異なる。

『死霊狩り(ゾンビー・ハンター)』は、魅力的な題材なのに、今まで映像化されていない。
いま日本で〈侵略テーマ〉でかつ暴力的な描写の際立つ小説を映像化しようとするのであれば、アニメーションがいい。
で、映画だと2時間という長さで収めるという時間的な制約があり、原作小説3巻ぶんを駆け足で描くか、2部作・3部作で描くという、興行的なリスクのある方法となる。

となれば、映像表現で制約がなく、かつグローバルな市場のあるネット配信のアニメシリーズがいいのではないか。
『BLAME!』『DEVILMAN Cry Baby』『B:The Beginning』など、これまでの日本アニメの表現から踏み出した領域に挑んだアニメに続く作品として、『死霊狩り(ゾンビー・ハンター)』は適している。
例えば、膨大な軍事知識の持ち主でもある片渕須直監督が取り組んだら・・・などと想像をたくましくしてしまう。
この小説が描くのは、人類の業であり、それを稀代の映像作家がどう描くか、見たいという欲を持ってる。

平井和正が静かに世を去って、その名は人々の記憶から消えようとしている。
『幻魔大戦』で、合計2,000万部も売った作家であるはずなのに、名は知られていない。
それが悔しい。
初期から中期の脂が乗っていた頃の平井和正の小説は、本当に面白いのだ。
多くの人に読んでほしい。

2018/03/02

『バトルスター・ギャラクティカ』から類推する『宇宙戦艦ヤマト2202』の展開

『宇宙戦艦ヤマト2202』は『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』『宇宙戦艦ヤマト2』の2次創作である。
30年以上の時が経過しているというのに、映像面のクオリティの低さをしっかり継承している。
『宇宙戦艦ヤマト2199』の続編ではない。
キャラクターデザインは流用しているが、『2199』のもう連続性はどうでもよくなっている。

それに、ほかの要素が色々と混入している。

誰の意向か知らないがアニメや映画やアメリカのSFTVシリーズから設定やら話の骨子やら、色々と盗んでいる、もとい、参考にしている。
『伝説巨神イデオン』や『超時空要塞マクロス』『エヴァンゲリオン』『機動戦士ガンダムUC』そのほかといったアニメからの引用やパクリ指摘は他の人に譲る

これは『バトルスター・ギャラクティカ』をやりたいんだろうな、と思った。
シリーズ構成の福井晴敏はインタビューで「アメリカのSFドラマのようにいろいろな要素を盛り込んだものにしたい」などと語っている。

『宇宙戦艦ヤマト2202』に登場するガトランティスは先史文明人が創造した「人工生命」である。
これは『バトルスター・ギャラクティカ』からのわかりやすい影響と言うか引用というかパクリである。

『ギャラクティカ』はどんな話なのか。

宇宙のどこか、人類は12コロニー惑星(コロニアル連合)で繁栄を謳歌していた。
あるとき、人類が創り出したロボット/人工知能が反乱を起こし、コロニアル連合は壊滅、かろうじて生き残った人類は退役した宇宙空母ギャラクティカを中心に船団を組み、13番目の伝説のコロニー「地球」を目指す過酷な航海に出る。
サイロンは人間と全く見分けがつかない〈人型サイロン〉を創り出し、船団の人々の中に紛れ込ませている。
不信が渦巻くなか、苦しさに満ちた航海が続く。

『宇宙戦艦ヤマト2202』のガトランティスはサイロンによく似ていないか。
これに、『伝説巨神イデオン』の要素を入れてみる。
現在の文明の前にあって今は消え去った文明人の遺したものが、この宇宙に存在する。それはこの宇宙そのものを消し去りかねない〈力〉である。

そうして類推できる『宇宙戦艦ヤマト2202』のおはなしは、こうだ。

いまの前の文明が繁栄していた時代、銀河宇宙にはアーケリアス文明を築いた生命体がいた。
彼らは高度な文明を築き挙げていた。
彼らは高い次元へと移行し、銀河系宇宙の生命体の生存に適した惑星に自分たちの文明を継ぐ存在を生むべく、〈種〉を播いた。
その種から、イスカンダル、ガミラス、地球などでは、ヒト型知的生命体が誕生して文明を築いた。
アーケリアス文明を築いた生命体は同時に、機械生命体も創り出していた。
それはヒト型知的生命体の築く文明を監視し、もし知的生命体が暴走したときにこれを滅ぼす〈安全機構〉である。
これはガトランティスという名を持ち、自己複製で世代を継ぎながら銀河系宇宙を監視し続けている。
テレサは、アーケリアス文明のメッセンジャーであり、〈世界のリセットスイッチ〉である。

ガトランティスは、地球が波動砲を開発したことを探知した。
地球を壊滅させるため、動き始めたのだ。
闘いはガトランティス対地球・ガミラス、そしてイスカンダルまで巻き込んで拡がり、この宇宙のヒューマノイドの存在を賭けたものとなる。









と書いてみたが、ガトランティスって惑星の文明を滅ぼすのに戦艦だとか自爆する兵士とかを使ってダラダラとやってるのは頭が悪い。
250万の艦隊が登場し、しかも一瞬で無力化してしまうとか、意味の分からない描写もあって首を傾げる。
最終兵器というか、「彗星都市帝国」があるんだから、最初からそれを使って地球を滅ぼしてしまえばいいのにそうしない。
そうならないのは、作られた存在で自己複製をしてきたガトランティスの中で、「個」による葛藤が生じてしまったのだ、というのをやりたいらしい。
これは『バトルスター・ギャラクティカ』の敵役・サイロンの中で、対立が生まれて人類側に与する者が現れるというのをなぞりたいのかもしれない。
サーベラーが複数登場するというのは、『ギャラクティカ』の剽窃とも『エヴァンゲリオン』の綾波レイの剽窃とも取れるが、例示してみれば新味がないのがわかっちゃう。
おまけに『宇宙の戦士』 オマージュとでもいうのか、強力な火力のアーマメントを付けた兵士も登場して、旧作品の世界観とは異なるのをあからさまにした。
 『バトルスター・ギャラクティカ』をパクるのなら、人物の描写の重厚さ、深さを真似ろ、と言いたいが、アップの口パク多用の現状では「芝居」は望んでもしかたがないことなのだろう。

訳がわからないのは、チラチラと宗教的な要素が見え隠れすることである。
ガミラス艦には経文みたいなものが刻んである。
テレザート星のテレサは蓮の花に乗っかって登場した。
なんだろう、仏教系国粋系教団かなんかが噛んだりしていないだろうな。

案外、ラストは『伝説巨神イデオン』のようにすべてが因果地平の果に去って、ヒューマノイドはいちからやり直しみたいになったりするか。
打ち切りがなかったら。

こんな色んな要素を入れ込むが、問題なのは面白くないことだ。何をやっても、「作品を観るときのカネと時間に見合う面白さを提供できていない」というのがクリアできていないのはエンターテインメント作品の提供者として恥ずべきである。
ごちゃごちゃしたものを低予算であまり技量のないスタッフで作ってる。
『バトルスター・ギャラクティカ』を紙芝居で私どもなりに作りましたよ、どうでしょうか。
30年くらい前のアニメみたいな演出で、画があんまり動かなくてときに作画の質が落ちてしまうという品質で作られているのだ。

面白くなくて質も低いしそのくせ見るのにカネと手間がかかるわで客が離れてしまい、肝心のDVD/Blu-rayの売上は下がる一方。
(と思ったら、がったり下がるということはなくて、「3章」の2万枚。コアなヤマトファンのロイヤリティの高さには驚く)

打ち切りのリスクが高まって、アメリカ製SFドラマみたいなものにするという野望は潰えるのだろうか。
アメリカのSFドラマは盛大に風呂敷を広げたものの、視聴率や再生率が悪くて非情にも打ち切られる作品もやたら多いのだ。
そうならないことを祈らないでもない。






2018/02/19

日本を捨てた男たちの〈ここではなく、どこか〉

どこか、ここではない、どこかに行ってしまいたい。
そう思ったことはないだろうか。

たとえば、殺人的な混雑の朝の通勤電車のなかで密やかに殺意を抱きつつ目を閉じているとき、残業がどうにか終わって背のびしてスマホの待受を見ると午後11時を回っていたと気づいたとき、仕事の失敗について上司から、理不尽とも思える叱責をうなだれつつ長い時間にわたって聴いているとき、ああ、ここにいたくはないここにいるべきではないと思うことはないだろうか。

〈ここではなく、どこか〉

それがどこであるかわからない。
テレビで見たのか、雑誌に乗っていた写真か、広告かなんかか、青く美しい南のビーチ。
あるいは、静かで美しい街並みの、いずこか。
我々は、たえず〈どこか〉を想う存在ではないのだろうか。

たとえば、クソみたいな日本を脱出して、海外で新しい生活を始めたい。
そう思ったことはないだろうか。
わたしは、ある。
あるが、僅かな時間、〈どこか南の島のくらし〉を夢に描いてのち、ため息をついて現実に戻る。
そしてまた、イヤなことに直面して海外行きを思い描く・・・













水谷竹秀『日本を捨てた男たち フィリピンに生きる「困窮邦人」』は、文字通り、日本を捨てた男たちを追ったノンフィクションである。

日本は、かなり前から「希望の持てない国」になっていた。
いつの間にか大半のひとの収入は十分でなくなって、海外に行くことなど思い描けなくなった。
苦しいから海外に出てチャンスを掴もうだとか、カネ儲けしてやろうと思うものはほぼいなくなってしまった。
おのれの惨めな暮らしには目を向けたくなくて「すごい日本」「すごい日本に住む私すごい」だとか「すごい日本人と同じ日本人の私すごい」などという妄想にすがって日々をすごして困窮の度合いを進行させていくばかりだ。

そういった中で、「日本を出ていった男たち」が少なからずいる。
この本は、フィリピンに渡った中年の男たちの足取りを丹念に追っている。

国を出て華々しい活躍を遂げているというひとは一人として出てこない。
欧米の著名な大学に留学して日本に戻らず、成功を掌中にしたというサクセス・ストーリーもない。

無名の、目立つこともなく生きてきた人たちである。

運送業を営む親が脳こうそくで倒れ、会社のカネを飲み食い遊興費に使った挙句、資金繰りに困って闇金に手を出し、フィリピンに逃亡したダンプの運転手。
高校を卒業後、33年間真面目に仕事に励んでいたサラリーマンがフィリピンクラブにハマってカネを浪費し、妻と離婚してフィリピーナと結婚、フィリピンに新居を構える。
早期退職で手にした約5千万円の大金を手にするものの、新居の費用、土地購入、ビジネスへの投資、そして、妻と親族にカネをむしり取られて追い出され、著者が取材に訪れた時点では預金残高は6万円になっていた。
その他にも派遣労働者、新聞配達員もフィリピンパブでフィリピーナと出会う。
彼らは、深い仲となったフィリピーナと新生活を始めるためにフィリピンに渡る。
フィリピーナとその親族によって、日本での蓄えを吸い尽くされ、文なしになって放り出される。
フィリピンのミュージシャンが好きになっておカネをつぎ込んで使い果たしたという女性も登場する。
彼らは捨てられ、路上やビル屋上で暮らすようになる。
しかし、困窮する日本人を哀れに思って寝場所を提供したり、食事を与えたりする優しい人々が彼らに手を差し伸べる。助けてくれるフィリピン人の方々は決して裕福ではない。それでも、人を助けようとする。
彼らは深い慈愛のもと、死なずに済む。
しかし、おカネはないので、日本への帰国はできない。親族も冷たくて、飛行機のチケット代も出してくれない。
「自業自得だ」と言う者もいるかもしれない。
かれらは、〈ここではなく、どこか〉を目指した。
だが、彼らの多くは新しい希望を思い描いて、異国に向かった。
それをあざ笑うことができるだろうか。

しかし、彼らは見通しが甘かった。だから、命以外のほとんどのものを失ってしまった。
日本を捨て、同時に日本に捨てられてしまった人々が、フィリピンに多くいる。
同じように困窮して帰国のメドが立たなくなった日本人は、タイやアメリカ、中国にもいるのだ。

フィリピン人女性と知り合って、国を捨てるに至った人々は裏切られてホームレスになってしまった。そんな彼らに暖かい手が差し伸べるひともいて、生きることはできる。
日本と違って常夏で凍える不安はない。
日本で孤立し困窮し、電車に飛び込むとか、住む家も失って寒い路上で暮らすとか、古いアパートで孤独に暮らしているうちに亡くなって、腐敗するまで見つけられることのない人生とどっちがいいのだろうか。

フィリピンの人々はどうしてこうも日本人、それも困窮している日本人に優しいのだろうかと思う。
かつて、日本がまだ勢いがあったむかし、フィリピンに行くにほんじ日本の男たちはフィリピン女性とおもに金銭によって成立する関係を結んで性交渉を行った。欲望は満たされて、男たちは日本の日常に戻るが、女性は妊娠して子供を産む。男とは連絡が取れないので認知もしてもらえない。
〈やり捨て〉で生まれた日本とフィリピンの混血の子どもたちは「ジャパニーズ・フィリピーノ・チルドレン」と呼ばれ、その数は10万とも20万とも30万とも言われる。

多くの日本人が下に見ている国、フィリピンは日本の負の部分につながっている国である。
この本はその事実を嫌というほどわからせてくれる。

フィリピンの人々はどうしてこうも日本人、それも困窮している日本人に優しいのだろうかと思う。

かつて、日本がまだ勢いがあったむかし、フィリピンに行くにほんじ日本の男たちはフィリピン女性とおもに金銭によって成立する関係を結んで性交渉を行った。欲望は満たされて、男たちは日本の日常に戻るが、女性は妊娠して子供を産む。男とは連絡が取れないので認知もしてもらえない。

〈やり捨て〉で生まれた日本とフィリピンの混血の子どもたちは「ジャパニーズ・フィリピーノ・チルドレン」と呼ばれ、その数は10万とも20万とも30万とも言われる。

多くの日本人が下に見ている国、フィリピンは日本の負の部分につながっている国である。
この本はその事実を嫌というほどわからせてくれる。

そして、もうひとつ。

この本で描かれる「日本を捨てた男たち」は中年もしくは高齢者である。
現在の中高年には、日本で辛かったら「外国に出る」という選択肢があった。
若い世代の生きる上での選択肢としての海外留学や就労は、一部の富裕層の子どもたちを除けば経済的に難しい状況になってしまった。

カネがないから、海外に行く機会などない若い人がたくさんいる。
富裕層以外の日本人にはもはや希望などない。
カネがないから、クルマも買えないし、新しい生活を思い描けない。「希望」のない国になってしまった。
日本は先行きが暗い。
日本国内の仕事がなくなってしまい、困窮者が増える。
社会保障も年金も破綻する。
国民が現在のフィリピンのように、なんとかカネを作って「外国に出稼ぎする未来」はありうるのだ。
海外で働く日本人女性が、現地の孤独な男たちを虜にし、日本に連れてくる。
そして女性の親族が男にぶら下がり、男の蓄えを使い尽くして路上に放り出す。
そんな未来もあるのかもしれない。

さて、もう一度質問したい。

どこか、ここではない、どこかに行ってしまいたい。
そう思ったことはないだろうか。

この本で書かれていることは、私たちにも無縁ではない。
彼らを愚かだと笑うことは、できない。

















2018/02/08

お客さんを怒らせて『宇宙戦艦ヤマト2202』は失敗した。

世間では話題になっていないし、アニメ好きの人にもあまり注目されてはいないが、『宇宙戦艦ヤマト2202』第4章というものが公開された。



宇宙戦艦ヤマトはガトランティスと戦っていて、不思議な力で次々ピンチを切り抜け、驚愕すべき火力を持つロボットもしくは人が操縦する機動兵器みたいなモノも出てきてガンダムというかボトムズというか、そういったテイストも付け加えられてイスカンダル星のスターシアと約束して封印したはずの波動砲を使うかどうか悩んだ挙句、発射しました。死んだと思われたデスラーはもちろん(お約束の)あっと驚く展開で実は生きていて。
悪い意味で懐古趣味的なアニメになった。
『さらば宇宙戦艦ヤマト』『新たなる旅立ち』『ヤマトよ永遠に』あたりの雑でご都合主義的な展開を蘇らせて「ヤマトらしい」アニメになった。
人物はアップの口パク、艦隊は工夫のないコピペでセンスの悪いデザインの戦艦が配置されているだけで予算がないということを隠しさえしない。2009年公開の『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』のテイストが蘇ったとでも言おうか。

『宇宙戦艦ヤマト2199』の有能で情熱的なスタッフはもういないのだ。
それを強く感じる。

退屈なお話を退屈な見せ方でTVシリーズ4本ぶん。
TVでタダならまだいいが、Amazonで3,800円も取るのだ。
映画2本ぶんという強気の値段設定なのだ。





2018/01/30

『宇宙戦艦ヤマト2202』衝撃のラスト!

『宇宙戦艦ヤマト2202』には宗教ぽいモチーフがちょこちょこ出てくる。


坊さんとか。





ガミラス艦の艦体に、経文のようなものがあるようなないような。
あと、この盾は『2202』から付いたものですよね。
宇宙空間なら、四方に付けないと防御の意味がないような。その場合、攻撃する場合はどうするんでしょうね。絵面がいいとか思い込んで、整合性が取れなくなった典型じゃないですか。


ヤマトの模型は、一体何なんですかね。

宇宙戦艦にお経みたいな文様があったり、女神様というか精神体というか、テレサという女性の人格を持ってると思われる存在が蓮の花に座った姿で登場するだとか、仏教ぽいビジュアルが散見される。
これは何なのだろうか。
制作者もしくは内容について権限を持つスタッフが自分の帰依する宗教からイメージを引っ張ってきて使ってるのだろうか。
「製作委員会」にどっかの仏教系宗教法人がカネを出して口も出してるとでもいうのだろうか。

まさか「生長の家」=日本会議とか「幸福の科学」とか「顕正会」じゃあるまいな。
その手の宗教と絡んだら、いまの日本に漂う右傾化の空気に乗って人気回復も夢じゃないぞ。






このまま仏教テイストが追加されていったらラストも仏教ぽく改変されるのではないか。


白色彗星帝国の圧倒的な力の前に絶体絶命のヤマト。
突如、テレサが出現した。
テレサは高笑いするズゥオーダー大帝の前で姿を変え、白色彗星帝国よりもはるかに大きな大日如来となった。
巨大な大日如来を中心にして、仏が取り囲む曼荼羅が宇宙に広がる。
『かぐや姫の物語』のクライマックスで天人がかぐや姫を迎えに来る場面のように、だ。





「き、貴様は大日如来!おのれ!」
ズゥオーダーは、我を忘れて叫ぶ。
大日如来が手をかざすと曼荼羅から圧倒的な光の奔流が起こってズゥオーダーは白色彗星帝国もろとも飲み込まれて消失するのだった。
古代は、ああありがたや仏の功徳だと滂沱の涙である。抱いていた森雪の亡骸も息を吹き返していた。
めでたしめでたし。

『宇宙戦艦ヤマト』は『西遊記』の翻案であるから、テレサの正体は釈迦如来でもいいかもしれない。
で、ガトランティスって別な次元から侵攻してきた異種異恨の生命体かなんかで、悪魔とか魔物とか呼ばれる存在でした、みたいなことにしてまあ、破邪顕正ってやつで亡びると。

「大日如来」はエル・カンターレでもキリストでもフロイでもバシャールでも宇宙高級神霊アリオンでも空海でも日蓮大聖人でもなんでもいい。
どっかの宗教法人の教祖や本尊やら信仰神をイメージさせる存在を登場させるのだ。
テレサから変身して姿を出し、古代とか島とかの台詞の端っこにでも教義を織り込んでおけば、信者がチケットを大量購入してくれるから儲かるかもしれないし。








2018/01/14

ジャッキー・チェン映画かつ映画再構築映画。『カンフー・ヨガ』

世の中にはシネフィルとか映画オタクとか映画依存症とか映画キチガイとかが一定数いて、「映画とはこうあるべきだ」みたいな講釈を垂れたりしているが、「そんなことどうでもいい」と教えてくれるのが『カンフー・ヨガ』だ。



灼熱の砂漠に白馬に正装でまたがって異様なまでにかっこいい人が颯爽登場、手に止まるはハヤブサ。
この人が今回の敵役なのだ。
おれはこのシーンにハートをぎゅっと掴まれてしまった。
なんという素晴らしい敵役であることだろうか。



『カンフー・ヨガ』は、このような画になる場面がこれでもかと出てくる。
中国インド問わず美男美女がたくさん出てくる。おまけにジャッキー流のアクションにきちんとついていっているのである。





2018/01/12

血がたぎるヒーロー映画の傑作『西遊記 ヒーロー・イズ・バック』

『西遊記 ヒーロー・イズ・バック』がやっと公開される。

原題『西遊記之大聖帰来』は2015年、中国でたった1館で公開が始まるも、アニメファンたちの熱のこもった口コミで評判が広がって公開規模が拡大、192億円のヒットとなった3Dアニメ映画である。
私は中国のシネコンで見て、胸を熱くした。






斉天大聖孫悟空は天上界で大暴れして、佛祖(お釈迦様)によって五行山に500年もの間幽閉されていた、のちに玄奘三蔵法師となる少年・リュウアーは、五行山に迷い込み、孫悟空を覚醒させた。
孫悟空は、地上に復帰したものの、かつての〈力〉は失われていた。
悟空は〈何ものでもない自分〉を抱えて旅する。
長安に向けて旅する孫悟空、リュウアー、猪八戒の前には、最強の妖怪〈混沌〉が立ちはだかる。
これは、孫悟空が斉天大聖として復活するまでを描いている。
そこにしぜんと、「ヒーローとは何か」ということを考えずにいられなくなる。

五行山を500年ぶりに出たが、力の大半は封印されたままの、孫悟空。



子供のキャラクターの可愛らしさにも注目。


敵は、妖怪〈混沌〉。
カッコよさが支持されて中国ではコスプレする人も出た。



この映画で特筆すべきは、アメリカ製3Dアニメにはない、色彩感覚と目を奪われるような凄いアクションシーンである。
天上界の軍勢と悟空が繰り広げる闘い、悟空と〈混沌〉の繰り広げる凄まじい速さで展開する闘い。
悟空の繰り広げるアクションは、ジャッキー・チェンやジェット・リー、ドニー・イェンといった大物たちのアクションに通ずる爽快さにあふれていてワクワクする。見ていてカラダを動かしたくなるようなリズムがあるのだ。

この映画は、ヒーローもの映画・ドラマが好きだという人には必見だ。
映画のクライマックスで、孫悟空が復活して凛と立つ姿には痺れるようなかっこよさがある。
これほど素晴らしいヒーロー像を描いた映画もない。
そう思っている。


これは、チャウ・シンチーの撮った傑作『西遊記~はじまりのはじまり~』。
奇っ怪としたいいようのない妖怪やヘンテコなキャラクターが続々登場する。
そして、かつて見たこともない斬新ともいえる悟空が登場するのである。